平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

命名コロビクビク。

駅の階段で久々にすっ転ぶ。
ホームから降りる階段の、最後の段を踏み外したのだ。

ここで、そこそこ長いこと生きていれば時には階段を踏み外すこともあるよな、と思えればいいのだが、ついつい持病の進行状況との関連について思いをはせてしまうのである。
まあ、病気のせいで人より「転びリスク」がやや高いのは本当のことなので、すっ転んだ時に、自分に対する注意喚起をするのは悪いことではないと思うのだが、やっかいなのは、こういう場合にどうしても、気分が落ち込んでしまうのだ。それは一時的なもので、一時的なものであれば落ち込まなければいいようなものなのだが、どうやらそうもいかないらしい。
ちなみに今回の落ち込み度は「もう映画なんか観に行くのをやめて、ソッコーで帰宅してフトンかぶって寝ちゃおうかな」くらいのレベルであった。

この面倒くさい落ち込み時間が、人間の体の構造上どうしても発生してしまうものなのか、病気との付き合いの長さや僕自身の性質が原因になって生じてしまうものなのか、そこのところはよくわからない。その仕組みがわかってもわからなくても、きっと僕の生活にはあまり変化はないような気がする。

結局、転ぶたびに少しびくびくして少し落ち込むような生活と、いい感じのところで折り合いをつけて生きていくしかないのである。この際、そういうライフスタイルを、「転びくびく」と命名してもいいかもしれない。これをアルファベットで表記する場合、そのスペルは、「Colo-bikbik」というのはどうだろう。ローマ字表記とあえて変えてあるあたりに、このライフスタイルが持つ「ちょっと冴えない感じ」がにじみ出ていないだろうか。

それはそれとして、今回の「すっ転び」は、なかなかいい着地だったのだ。階段を踏み外し、体がぐらりと傾きつつあるのを巧みに制御し、公衆の面前で大の字になってひっくり返るという事態は避けることができた。
最終的な姿勢としてはスキージャンプの着地の時に似ていて、自分でいうのもおこがましいが、すっ転び後の体勢としては芸術点をいただいてもいいくらいだった(左の膝小僧はものすごく痛かったんだけど)。

ところで。
観に行った映画は『NO SMOKING』という細野晴臣にまつわるドキュメンタリーだ。50年という長い長い期間にわたる音楽活動の記録なのだが、意外と知ってることが多くてちょっと驚いた。これは僕が物知りだからというわけではなく、そこそこ長く生きているからなのだろう。なんにせよ、好きなミュージシャンの音楽ばかり流れてくる映画は、たとえば膝が痛いなあと思いながら観ていても楽しいものだ。
ソッコーで帰宅しなくてよかった。

それにしても、勢いにまかせて「コロビクビク」などという言葉を考案してみたが、これはきっと、あとで後悔するやつなんだろうなあ。

それはまるで物語のような。

僕の住む町から一番近い繁華街に新しくできた映画館に行ってみる。
なんでも国内最大級のスクリーンが自慢なのだそうだ。この映画が観たい、というより、その映画館の巨大スクリーンを見てみたい、という動機で上映スケジュールを確認してみると、たまたまそのスクリーンで公開される作品がちょっと興味のあるものだったので、それを観ることにする。

劇場の入り口のところで、係のお姉さんからポスターをもらう。来場者特典というやつなのだろうが、そういう特典があることを知らなかったのでちょっと得した気分になる。映画を観終わった時にはじめて、2時間半を超えるけっこうな長編であることを知ったような有様なのである。突然手渡されたポスターにびっくりして、お姉さんに「え、いいんですか。普通の料金しか払ってないですけど」などと言ってしまっても仕方がないというものだ。ちなみにお姉さんはちょっといたずらっぽい笑顔を浮かべて、こう言ったのであった。
「も・ち・ろ・ん・です! 本日はお越しいただきありがとうございます!」

座席に座ってから丸められたポスターを広げてみる。
レオ様とブラピの写ったポスターを自分のものとして手に入れるのははじめてだ。これをリビングの壁あたりに貼ったら家族はどう言うだろう。とりあえず娘にはレオ様とブラピの説明をする必要があるかもしれない。

クエンティン・タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』という、「監督名も作品名も長すぎやしないか」と思わなくもない映画に付けられたキャッチコピーは、「ラスト13分。タランティーノがハリウッドの闇に奇跡を起こす。」というものだ。このコピーを知ったのが映画を観た後でよかったと思う。もしも先に知っていたら、「ラストに何か奇跡的なことがあるのだな」と身構えてしまうところだった。
物語に大詰め感が出てきた頃、一挙手一投足について「これが奇跡か」、「いやむしろこちらが奇跡かも」などと凝視されては、レオ様もブラピも演技に集中できないだろう。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』という映画について僕が抱いた感想は、「可愛らしい」とか「愛らしい」とか、そういう意味合いのものになる。ただ、もしかするとこれは、相当に「個人の見解です」という類の感想になるのかもしれない。どこがどう可愛らしくて愛らしいのか、うまく説明はできないのだけれど、なんとも可愛らしく愛らしい物語だなあ、と思ったのだ。映画のような映画。物語のような物語。物語のような映画。映画のような物語。
あと、これはぜひ書いておきたいことなのだけれど、この映画に出てくるマーゴット・ロビーはとても可愛らしく愛らしかった。これについては逆に説明不要というか、(おそらく)誰だって観たらわかる、という類の感想だ。

話は少し変わるのだけれど、映画を観終わって帰宅した後、僕の住むマンションが火事になった。
鳴り響く火災報知器の音を聞き、続々と集まってくる消防車の赤いランプを見ながら、なんだか物語の中にいるみたいだ、と思ったのであった。

『天気の子』の最後の部分について。

スタッフロールとかエンドクレジットとかいわれる例のあれ、映画が終わる時にスタッフやキャストの名前が流れるように表示されるあの時間帯の最後には、その映画の監督の名前が表示されることが多い。
スクリーン下方から監督の名前が登場する時に、「そのまま監督の名前が流れ去る」場合と、「監督の名前のみスクリーン上に静止する」場合があって、個人的には流れ去る版のほうが好きなのだ。

映画に関する好みということでいえば、その作品のタイトルが表示されるタイミングや演出についてもわりと気にするほうかもしれない。
ちょうどいいタイミングでちょうどでいい大きさのタイトルがちょうどいい音響や音楽の中ちょうどいいくらいのキレで表示されるともうそれだけでうっとりとしてしまい、その時点でその作品は傑作として認定されることもある(もちろん、あくまで僕の中で)。

そんなわけで、『天気の子』は、僕(及び一緒に観た娘)にはなかなか好評であった。もちろんこれは、中身、というか本編部分も含めてのことだ。少なくとも我々親子には(ちょっと意外なほど)すとんと受け取ることのできる物語であった。ただ、けっこう好き嫌いの別れそうなお話のような気もしたので、娘にそこらへんのことについてのご意見を聞いてみたところ、彼女はカップヌードル(シーフード)を食べながら「お話なんてそもそもそういうもんだから」と回答した。僕はカップヌードル(チリトマト)を食べながら、まあそうだよな、と思ったのであった。

ところで、作品中で語られるところの「カップヌードルは調理時間2分で食べたほうが美味い」という主人公の主張についての我が家の見解は、「わりとどちらでもいい」である。
これは、映画館からの帰り道でカップヌードルを買いこんで実験した結果、確定した結論ではあるのだが、まあ、だからなんだ、という話ではある。

クラムボンはわらったよ。

最近はなにもしていない。

本も読まず、録画していた映画やアニメを観ることもない。
本来そういうことをするために用意している時間、つまり、自分が裁量権をフルに行使できる時間は、なんとなくぼんやりとしたり、テキトーに携帯をいじったりしている。で、Twitterの画面をすいすいと飛ばしながら、流れていく言葉をこれだけ眺めているのに見事なくらい頭に入らないものだな、とか思うのだ。そういえば、ささやかな趣味である雑文書きもほとんどしていない。なにかをしたいという気持ちにならないのだ。わりと自然に、無理もなく。

ただただだらだらと流れていく時間がもったいない、というようには(今のところ)思っていない。もともとそういうふうに考えるタイプの人間でもないのだけれど、それにしても今回の「なにもしない期」は長い。長すぎる(十万石まんじゅう)。とりあえず、僕の脳内で僕の行動全般を管理統制している委員たちからは「ここまで長いとさすがに心配なのではないだろうか」というような声は上がっていないようだ。委員たちは「やれやれ」という感じで顔を見合わせ、「まあ、生きてりゃそういうこともある」というふうに納得しているのかもしれない(もしくは、あきらめているのかもしれない)。会社に行かなくなったとか、家族との生活を放棄したとか、そういう問題が発生しているわけでもない。上等とは言えないかもしれないが、とりあえず社会人としての生活はできているのだから、まあいいだろう、というところなのかもしれない。

そういう調子で4月という月を過ごしていたのだが、いわゆる音楽フェスには行った。先月だか先々月だかにチケットを買ってあったのである。
クラムボンはかぷかぷとわらい、銀河鉄道が頭上を走るという、コンパクトな、なかなかいいフェスだったと思う。大きな音で生の音楽を浴びながら、ちびちびとレモンハイを飲むのはとてもいい気分であった。

音楽が僕の薄いコートを細かく震わせる。僕はそれに合わせて左右に体を動かしたりする。 体に音楽がぶつかって、体内をすり抜けるたびに、あちこちにある目詰まりのようなところから何かが落ちる気配があった。まるで、地球上のどこに行くときにも着ていてかれこれ数十年着っぱなしになっていた一張羅の上着をばさばさとはためかせた時のように、体が揺れるたびにホコリのようなものが宙に舞った。これはもちろん比喩的表現というやつなので、僕のまわりの席の人たちには迷惑はかけていない(はずだ)。

フェスが終わると、とうとう僕は空になったような気持ちになった。
もちろんすべてではないのだけれど、僕の中にある棚のいくつかが空っぽになってしまったような感触がある。こういう状態をすぐさま「リセット」とか「リフレッシュ」とか言えてしまうような性格でもないので、なにもない状態は心もとなく、不安でもある。
ただ、体は少し軽くなった。

気まぐれロマンティック。

仕事の都合で帰りが遅くなり、帰宅した時には日付が変わっていた。
遅い夕食を取り、風呂にも入ってしまうと、丑三つ時やや手前、という時間になっていた。いつもなら寝ている時間帯だが、シフト勤務による生活サイクルのずれの影響か、不思議と眠くない。

さてさてどうしたものかな、などと思っていたら娘が自室から飛び出してきた。そして目が合った僕に、焦っている者がよくそうなるような、上ずった口調で彼女が言ったのは、贔屓にしているアニメの続編、専門用語(でもないか)でいうところの2期の製作が決まった、という内容のものであった。
そのアニメとは、ものすごく大ざっぱに言ってしまえば中学生の男女が繰り広げるラブコメで、観ているとどんどんこっぱずかしくなってくるというものだ。イメージとしては甘酸っぱさという言葉が近いような気もするが、僕自身の中学生時代にそのような味覚を刺激された記憶はなく、このアニメで描かれるものは空想上(もしくは妄想上)の甘酸っぱさなのかもしれない。
……というようなことをつらつらと書いてしまうのは、1期が放送されていた頃、娘といっしょに視聴していたからで、毎週のように「中学生女子はたまらんなあお父さん」というようなことを言う娘にどう返答したものか毎週のように困っていたものだ。娘はアニメに登場するかわいい女の子が好きで、趣味嗜好としてはいいとは思うのだが、そこで僕が同調するかどうかというのは別の問題だ。そこで安易に「まあ確かにかわいらしいねえ」などと言ってしまうと、次に待ち構えているのは「あの太ももとか、頬ずりしたくなるよね」という同意を求めるクエスチョンなのだ。
仮に僕が内心で頬ずりをすることを熱く希望していたとしても、それをある意味正直に、包み隠さず女子高生の娘にカミングアウトしてしまうことが本当に「いいこと」なのかどうか、なかなかに悩ましい問題のような気がする。が、そもそもその問題について考えてみるのは、頬ずりに関しての熱い希望を持っているという状態になってからでも遅くはない。今後のことはわからないが、今のところ僕にそういう兆候はない、と思う。
もしかすると娘は、父親が答えに窮するところを楽しもうとして、気まぐれにそういう会話を仕掛けていたのかもしれない。まあなんにせよ、この手の話は僕にとっても面白いことではある。

娘との会話が終わった後、携帯を見ると知人のアナグマさんからLINEが来ていた。以前もらった面白画像が携帯の中で行方不明になってしまったので、確実に自宅にいる深夜に高画質モードで送ってくれるようにお願いしていたのだ。
久々に見るそれらの画像はやはり面白く、こんなもののサムネイルを会社なり電車の中なりで見てしまったら、帰宅するまでとても待てずに即刻ダウンロードしてしまうだろう。アナグマさんプレゼンツの画像は、僕のツボをくいっと押してくる確率がとても高い。

シフト勤務の日は終日損をしたような気分になるのだが(我ながらよろしくない気分だとは思うのだが、おそらく僕は心底不真面目な会社員なのだろう)、娘とアナグマさんのおかげで一気に持ち直したような気がする。わりと素直に、すてたもんじゃない日だな、と思ってしまった。

それはさておき、『からかい上手の高木さん』の2期製作、おめでとうございます。親子で楽しみにしています。
……と、誰にともなくつぶやいてみるのであった。

初笑いは想定外。

ずっと前に録画してそのまま忘れていた『恋する惑星』と『天使の涙』を観る。かなり小規模なウォン・カーウァイ祭りである。
ちなみに、どちらももう20年以上前の映画だ。懐かしいやら(なぜか)こっぱずかしいやら、うきうきにやにやと楽しく鑑賞した。特に『恋する惑星』のかわいらしさは格別で、お猿さんのようなフェイ・ウォンはひたすらキュートだし、BGMに『夢中人』が流れてくると今でも少し胸が熱くなる。
余談になるが、この映画のトニー・レオンは中川家のお兄ちゃんとほぼ同じ顔をしている、ような気がする。

映画を2本観賞した後、これまた録画していた細野晴臣の正月番組を観る。ゆるいお笑いと音楽がかわりばんこに流れてくるというもので、力を抜けるだけ抜いて観るとけっこう面白い。
コントのコーナーでギターを抱えた小山田圭吾が出てきたときには思わず吹いてしまった。はからずも不意打ちを食らったからか自分でも意外なほど大きな声で笑ってしまったので、今年の初笑いとして認定することにした。

ということで、今年の個人的初笑い賞は小山田圭吾氏に贈ります。こっそりと、心の中で。

『眠れぬ夜のために』のために。

やはり、気の利いた会社は休むのかもしれない、と思ったのは、1月4日金曜日、つまり僕にとっての仕事始めである昨日、行き帰りの通勤でのことである。
とはいえ、僕にしたって休日に働いているわけではなく、平日に普通に出社しているだけのことなのだ。金曜日に休むことを許された人たちのような得はしていないが、損もしていない。
それなのに、このなんともいえない気持ちといったらどうだ。
思わず舌打ちなどをしてしまわないように、終始「お口チャックお口チャック」と心の中で唱え続ける一日なのであった。

ところで今日は、『眠れぬ夜のために』という映画を観た。テレビ放送されていたものを録画したおいたのだ。もう30年以上前の作品で、監督はジョン・ランディス。

「眠れぬ夜のために」

なんともロマンチックな、そして少しのさみしさを含んだ言葉なのだろうか……というようなことを30年前、少年時代の僕は思ったのであった。それ以来、このセンテンスは何かの呪文のように僕の胸のうちに沁み込んで、今も眠れない夜には口ずさんでいる。
これは、眠れない夜にどうやったら眠れるのだろうか、という意味の言葉ではなく、眠れない夜にそっと寄り添ってくれる言葉なのである。そう思ったかつての僕は、なんとなく救われたような気になっていたものだ。まあ、全体的に思い込み過剰で、さすが少年時代、グッドジョブ思春期、というところだ。アメリカ製コメディ映画の邦題として生まれた言葉が、ここまでの意味を背負わされるとは思ってもいなかっただろう。

そこまでこのタイトルが気に入っていたのだが、映画そのものは今回はじめて観ることとなった。あまりにもこのタイトルが沁み込んでしまったために、映画そのものについての興味がそれほど湧かなかったのである。ああ、コメディ映画なのね、ま、機会があったら……などと思っていたらそのまま30年経ってしまった。生きていると、そういうこともある。

世の中には「ボタンをかけ違えた」という表現があるが、その言い回しを使用すると、最初から最後まで、全体的にあちこちのボタンをかけ違えたような映画ではあるのだが、80年代っぽい文法とテンポで語られる物語は、休日の午後にぼんやりと観るには非常に心地いいものであった。
あの主人公は、あの後、どうするのだろう。ふとそういうことを思うと、少しさみしくなった。結局のところ、彼の不眠症は治ったのだろうか。なんとなく、また再発するような気がしないでもない。

ところで、主演のジェフ・ゴールドブラムは、なんとなく雰囲気が香取慎吾に似ているような気がする。