平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

あなたがいるなら。

「ただ見てるだけで、なぜ、わけもなく、切なくなるのだろう。動くだけで、なぜ、意味もなく、どきどきしてくるのだろう」

「あなたがいるなら、この世は、まだ、ましだな」

その人が存在するだけで、「この世はまだましだ」と思えるような、そんな人がいるとすれば、それはなかなかすてきなことだろう。

コーネリアスの『あなたがいるなら』で描かれる「あなた」は、ありとあらゆるところにいる可能性がある。家族や恋人や友達というような直に触れられる人以外にも、液晶画面やイヤフォンや紙のページの向こう側にも、「あなた」はいるのかもしれない。

逆にいえば(いや、逆ではないかもしれないが)、家族や恋人だからといって、この場合の「あなた」になるとは限らない(ような気がする)。
そういう人たちを大切に思う気持ちとは少し離れたところに、「あなた」はいる(ような気がする)。
「あなた」は、自分との距離とはあまり関係なく、どきどきさせたり、切なくさせたり、うれしくさせたりする。その期間は1時間かもしれないし、もしかしたら50年かもしれない。いつの間にか「あなた」が地球の裏側にいる別の人になっていたり、別の「あなた」に入れ替わっていたり、昨日までいなかったはずなのに突然近くにあらわれたりする、ということもあるかもしれない。

手や、目や、耳で、触れることのできるところに、「あなた」がいるということは、なかなかすてきなことだろう。

それでは、僕にはそういう人がいるのだろうか、というようなことをふと考えてみる。

再来週に観に行くライブの予習も兼ねて……というほどのことでもないのだが、この曲が含まれているコーネリアスの最新アルバム(『Mellow Waves』。発売は1年以上前なのだが)をよく聴いている。そこそこ年季の入ったファンなので「コーネリアスがこういう曲を歌うようになるとはねえ。ついこないだ、悪魔みたいなツノつけて「月の上でムーンウォークしながら君の家を探すのさ」みたいな曲を歌ってたのになあ」などとつぶやきつつ、静かにじっくりと聴いている。

コーネリアスは静かに歌う。
「見てるだけで」
「いるとわかるだけで」
「声を聞いただけで」

僕にもそういう「あなた」がいる。
ごく正直に書くと、意外なことに、いた、という感じだ。
即座に思いつくことができず、ゆっくりとじっくりと考えて、ようやく気付くことができたのだ。
この文章を書くまで、それははっきりとはわからなかったことで、今、わりとどきどきしている。

この曲は、こう繰り返して終わる。
大事なことは繰り返すのだ。

あなたがいるなら。
あなたがいるなら。