平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

「あーあ」(もしくは、感染してもしなくても)

この時期の繁華街を見ておきたい。
新しいウイルスのことを意識して、それに触れぬよう静かに息をひそめて生活しているというのが今の生活であり、これは間違いなく僕のささやかな人生の中でははじめての経験だ。この状況がいつまで続くのかわからないけれど、今のうちに静かな街を見ておきたいと思ったのだ。
それはもう純度100パーセントの知的好奇心が思わせたことではあるのだが、それは不要不急の外出ではないのかと問われれば「そうかもしれません」などとうつむきながら答えてしまいそうになる。繁華街に出ればそれなりに用事はある。あるのだが、それが今どうしてもこなさないといけないものなのかと言われればそうでもない。

それでも我々は、自宅から一番近い繁華街に出かけることにした。我々、というのは、娘も同行するからである。娘もだいたい僕と同じような好奇心を抱えていて、視察をすべきかどうか迷っていたらしい。そこに父親が「ちょいと行ってくるわ」みたいなことを言いだしたので、急遽同行することにしたそうだ。こういう時、「受け継がれる遺伝子」というようなことを考える。こんなところが似てもねえ、とも思うが、じゃあどこが似てたら良かったのかと考えてみると腕組みして頭をひねり「うむむむむ」などとうなってみても名案は思い浮かばない。

そんなわけで結成された即席視察団ではあるが、構成メンバーである僕も娘も3月中旬から今に至るまで極力不要不急の外出は避けてきたという自負はある。というか、そもそも我が家の面々はステイホーム能力が高いというか、自宅でじっと過ごすことについてそれほど苦にならないようなのだ。
特に、学校に通うことがなくなった娘は、4月については犬を散歩させる時くらいしか外出していない(ちなみに5月は犬の散歩に加えて4日ほどアルバイトに行った)。それでも特に不都合はないようで、最近、自分がいちにち15時間眠れる人間であるということを発見したそうだ。この発見について娘は「自分のポテンシャルに驚いた」というコメントを残している。

繁華街に向かう電車は空いていた。まったく人がいないということはないのだが、土曜日の夕方ということを考えるとかなりの空きっぷりだ。駅から乗り込んだ乗客がベンチシートに座る時、乗客ひとり分のスペースを開けるという暗黙のルールができている。我々視察団のようにグループで乗る場合はこの限りにあらず、ではあるが、終点近くの比較的多く乗客が乗り込む駅まで、このルールは黙々と守られ続けていた。
とある駅から乗り込んだ乗客が、暗黙のルールを知ってか知らずか開けてある空間部分に座った時、そのとなりに座っていた乗客がため息をつきながら離席して、ドア近くの空間に移動した。なるほどこれが「今」ということなのだ、と思った。

目的地である某繁華街はやはり静かで、そして少し薄暗かった。
とはいえ繁華街だけに「おお、こんなにまとまった人数の人間を見たのは久しぶりだ」という衝撃はあったのだが、それにしても平時と比べればかなり少ないといっていい。
想像していたよりも営業中のお店は多い。それでも全体的には薄暗く見えるのは、営業していないお店の明かりがないからだ。夕方の空の明るさが、営業しているお店の存在感以上に、営業していないお店の存在を強調している。

少し歩いて、大きなショッピングモールに向かう。
このショッピングモールは、4月以降、施設全体が休業しているのだが、JRの駅と私鉄の駅を結ぶ近道としての機能があるので、中に入ることはできる。
ここには娘が気に入っていた洋服屋がある。他の多くのお店と同様、緊急事態宣言発出後、いわゆる「当面の間」ということで休業し、そのままいくつかの支店もろとも(残念ながら)力尽きてしまったらしい。閉店することがSNSで発表されると、オンラインストアの在庫はあっという間に完売したそうだ。

娘がはじめて気に入った洋服屋、ということで、このお店は僕の中でもそれなりの思い出の場所になっている。「服を買いに行くための服がない」みたいなことを言っていた娘から「最近ちょっと気になってるお洋服屋がある」というようなコメントを聞いた時には「や、やるじゃねえか」と思ったものだ。
店員さんに声をかけられるのを防止するための壁として、とか、パーカーとスカートをそれぞれ胸と腰の前で構えて娘がコーディネートを確認するためのマネキン役とか、そういう役目で連れていかれたことも何度かある。娘にお気に入りのお店ができる、ということは、親としてもなんとなくいい気分になるということを、そういう立場になってはじめて知った。 余談ではあるが、マネキン役として女子向けの服を真顔で体の前で構えているところを店員さんに発見され、とてもあたたかい感じでほほえまれたことがある。

閉じたシャッターや、お店の看板などの写真を携帯で撮りながら、娘は「コロナの影響っていうのをはじめて実感したような気がする」と言った。
そして、「正月の福袋も、1回しか買えなかったなあ」、「また新しい洋服屋を探すのかあ」などと言いながら何枚もの写真を撮り、最後にお店のロゴマークをアップで撮り終えた後、「あーあ」とつぶやいた。
新型ウイルスは、まだ感染もしていない娘に(少しかもしれないけれど)傷をつけている、というようなことをふと思う。そしてその10パーセントくらいかもしれないけれど、僕も少し傷つけられたような気がしている。

ショッピングモール地下1階の噴水広場は四方をシャッターで遮断されていて、近づくことができないようになっていた。もしかしたら特に不思議なことではないのかもしれないけれど、噴水から流れる水の音がシャッターの奥から聞こえてくる。こういう状況の場合でも、水は出しっぱなしにしておくものなのだろうか。
水の音を聞きながらその噴水を想像する。最後にそれを見たのはいつだったっけ、というようなことを思う。勘違いだとわかっていても、なんだかとても昔のことのような気がして仕方がない。

ショッピングモールから駅に向かう途中で、大きな文房具屋に寄る。
入店前には店員さんから体温をチェックされる。「このご時世」に慣れてしまったから特に驚きはしないものの、文房具屋に入るために店外にソーシャル・ディスタンスな塩梅で一列にならび、スーパーのレジでバーコードを読む機械のようなものを額に当てられて体温を計測してもらい、一人ずつ入店する、というのはやはりなんというか、ずいぶんと変わってしまったんだな、という気分になる。今は違和感のあるこの風景が、そのうち新しいスタンダードになるのだろう。

帰りの電車の中で娘が言った。
「わざわざお店の人に体温まで計ってもらったのに、買いたいものは見つからず、その上トイレだけ借りて店から出るなんて、なんかただ迷惑な客って感じだったよね」
店に欲しいものがなかったのは我々のせいではないし、僕が突然トイレを使いたくなったのも人間である以上仕方のない生理現象だ。その見解は間違っていないような気がするし、娘が苦笑いしていることについてもひとこと意見を述べたいような気がする。

となりの席に人が座ると同時に離席した女の人の後ろ姿とか、薄暗い繁華街とか、開くことのないシャッターとか、見えない噴水とか、体温を計る時に「申し訳ございません」と言いながら頭を下げた店員さんの頭頂部とか、そういったものを思い出しながら僕は言葉をさがし、結局のところ村上春樹の小説の主人公みたいに、

「そうかもしれない」

とつぶやいたのであった。