平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

彼女が好きなナンバー8。

どこかの家の中から、テレビの音が聞こえてくる。
おそらくそれはニュース番組で、明瞭な男性の声が、

「感染の拡大が続く東京で……」

と言っている。
僕は犬(女子)と朝の散歩中で、思わず彼女に「映画かなんかシーンみたいだね」と言ってみる。
まだ七時前だというのにけっこう暑い。しかしそのかわりよく晴れている。
ありふれた夏の朝に、聞こえてくる不穏なアナウンサーのコメント。
これはアレだ、まさにSF映画の冒頭部分だ、などとつい思ってしまいつつ、いやもうこういうのずっと続いてるじゃないの、と、我に返る。
彼女はといえば、アスファルトの上でひっくり返っているセミの死骸に興味津々で、僕の発言など聞こえていないようなそぶりだ。でも、彼女に話している間、耳がぴくぴくと微動していたのを僕は見逃していないので、聞こえないふりをしているんだな、と判断する。飼い主の声よりセミの死骸。犬には犬の価値観がある。

僕が犬に話しかける場合、人間と話す時と同じような口調と音量で話す。「散歩行きまちゅか」みたいな口調がどうにも苦手なのだ。
そのせいで、足元の犬に話しかけながら歩いていて、たまたますれ違った人にびっくりされることが時々ある。すれ違った人としては、前方からやってきた中年男に、いきなり「そろそろウンチ出ないっすか」などと言われるのだから、驚くのも無理はない。ぎょっとした顔をしてこちらをぎっと睨みその後僕の足元の犬に気づきはっと真相を理解する。そういうことがだいたい三か月に一度くらい起こる。

自宅で仕事をするようになって、犬と一緒にいる時間がうんと長くなった。
平日であれば、朝の散歩の後、仕事をはじめることになる。僕が仕事をしている部屋には、家族は基本的には近づかない。仕事をしている僕に気を使っているわけだが、そういう意味で彼女はまったく僕に気を使わない。好きなタイミングでやってきては僕の様子をうかがい、時々は足首をべろべろ舐めたりして、扇風機の真正面で涼んでいく。最近買った扇風機が彼女のお気に入りなのだ。
久しぶりに手に入れた扇風機はなかなか賢くなっていて、羽根の形を工夫することで体に負担がかからないなめらかな風を作ることができるようになったらしい。その上、風の強さは32段階だ。32段階(!)である。扇風機の風量は「ソフト」、「弱」、「強」の三種類だと思い込んでいた僕なので、32段階という数字の大きさにはとまどいを隠せない。それはそれとして、冷静に考えると「ソフト」、「弱」という区別はなかなか味がある。

僕のような繊細さからはほど遠い人間には違いがわかりづらい32段階の綿密な風量コントロールも、「体に負担がかからないなめらかな風」も、もしかしたら彼女には敏感に識別できているのかもしれない。そもそも犬のほうが僕よりは体内の各種センサーの性能がいいような気がするし、まして小さな体の犬にとって、少しの風の質の違いが大きな影響を受けるということも考えられなくもない。だから、我が家に三つある扇風機の中でも、一番新しい僕の部屋の扇風機を気に入っているのかもしれない。

在宅勤務になって以来、仕事をしている間、人間と会話をするということがほとんどなくなってしまった。ほとんど唯一といっていいコミュニケーションの相手が、彼女なのである。もちろん犬は日本語を発することはないけれど、鳴き声や体の動きすべてで僕と会話しようとする……というのは飼い主の思い込みなのかもしれないけれど、そうなんじゃないかなあ、と思うことがある。「今だけは集中したいので話しかけないでください」という状況の時にちょっかいを出されるとものすごく困ったりもするのだが、なんとなく、ある種の仲間意識のようなものを感じるようになった。

なので、扇風機の風量については彼女の好みを優先することにしている。いろいろな風の強さを試してみて、彼女の扇風機前滞在時間やうたた寝をしている時のリラックス具合を観察し、風量「8」あたりが彼女のフェイバリット・ウインドなのではないかという結論を出した。

正直、僕の好みとしては「8」はやや弱いと思うこともあるのだが、セミの死骸のように仰向けになって、すいすいと寝息をたてて昼寝をしている彼女を見てしまうと、まあいいか、と思う。