平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

手のひらに鼓動。

自宅にいる時間が長くなり、その上、ベッドに横たわっている時間が増えるにつれて、犬と一緒にいる時間もどんどんと増えている。

在宅勤務になって、自宅であるにも関わらず、今までわかっていなかったことにいくつも気づいたものだが、その中のひとつは、「犬はけっこう寝てばかりいる」という事実だ。
昼も夜もスーイスーイという寝息を立てて実によく寝ている。その音量はけっこう大きく、仕事をしている最中などは「昼間っからスイスイと寝てられるなんざァうらやましいご身分ですなァ」などと思いつつ心底うらやましくなるのだが、音色そのものは聞いていて心地いいものだ。なんというか、でこぼこした気持ちを平らにならしてくれるような効果がある(少なくとも僕には)。Spotifyとかで聴くことができたら、眠れぬ夜などに重宝するかもしれない(少なくとも僕には)。

ウチの犬の夜の日課は、娘と決闘(としか形容できない遊び)を何回戦かやって、疲れると僕のベッドに来る。この決闘のルールは彼女たちの間で暗黙のうちに決められていて、勝率は五分五分というところのようだ。
彼女(ウチの犬は女の子だ)はベッドに飛び乗り、僕が寝ているのを確認すると、前足でちょいちょいとフトンを叩く。それが、フトンの中に入れろという合図なのだ。フトンの中に入ると、彼女は僕の腕枕でスーイスーイとすぐに寝てしまう。犬一般の常識なのかどうかわからないが、ウチの犬は枕が好きだ。

最近、彼女は内臓を悪くしていて、毎晩一錠、薬を飲んでいるのだが、日によってはそれが吐き気の原因になることがある。夜中に突然フトンから飛び出し、ベッドから飛び降りて何度かゲーゲー言ったあと、だいだい三回に一回くらいの割合で泡の混じった黄色い液体を吐く。それは別にかまわないのだが、吐いた後の彼女はしょんぼりと伏し目がちにベッドに戻り、そのままフトンには入らず、僕の枕に顎を乗せ、自分の体を僕の体にくっつけるようにして眠るのである。
薬の影響で吐き気に悩まされたという意味では僕と彼女は同士のようなものなので、同じ悩みを持つものとして寄り添って眠りたいということなのだろうか。そう考えると可愛らしい仕草ではあるのだが、同じ枕を使い、くっついて眠る犬の口元から吐いたモノの臭いが漂ってくるという状況はいかがなものか、という気がしないこともない。もちろん、吐いた後に口は拭いてやるのだが、どうしても残り香はある。

眠っている間にフトンからはみ出してしまった犬の向きをそっと直そうとして、体の下に手を差し入れた時、手のひらに鼓動を感じることがある。同じような感覚を前にも体験したことがあるぞ、などと思っていたのだが、昨日の夜、ふと、娘が幼い頃の記憶であることを思い出した。
夜中に娘の寝相を修正する時に、同じような鼓動を感じることがあったのだ。娘の体はあたたかく、少し汗をかいていて、同じフトンで寝ていると汗とシャンプーの混じった匂いがしたような気がする。

寒い夜、胎児のように体を丸めて横になっている時に、あたたかいものを抱き寄せることができるのは少し幸せなことだ。そういうことができる時間は、人生の中で意外と短いような気がする。
とはいえそれは、人生最高の経験、とか、経験できないことが悔しくてしかたがない、とかいうような大げさなものではないし、わざわざそれを目指して生きるというほどのことでもなく、僕はたまたま、それを経験する機会に恵まれた、というだけのことだ。

今夜、僕の腕の中には犬がいる。
スーイスーイと寝息をたてて、時々ぴくぴくと手足を動かしたりしている(走っている夢でも見ているのだろうか)。首のあたりの毛にそっと鼻を近づけると、何に例えればいいのかわからないような独特の匂いがする。ほこりっぽいような、ちょっと塩っ気を感じるような匂いで、とりあえず思いついたのが昆布茶なのだが、おそらくそれは僕の勘違いだろう。そもそも、昆布茶の匂いなどここ何年もかいでいないはずだ。

なんとなく眠れない夜、熟睡している彼女には悪いと思いつつも、その体を抱き寄せて、後ろから包み込むような姿勢になる。体を動かされたことで目を覚ました彼女は、しばらくうらめしそうに僕を見るのだが、むにゃむにゃと何か言った後、すぐに寝てしまう。

そういえば、そんなことを昔、幼い娘にもしたかもしれない。
真っ暗な寝室で、寝息を聴きながら、手のひらに鼓動を感じながら、眠くなるのを待ちながら、そんなことを思う。