平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

夏の扉。

髪を切った。
自慢ではないが、僕の「髪を切った」は、そんじょそこらの「髪を切った」と同じにされたら困っちまうぜ、というくらいの「髪を切った」なのである。

つまり、本当に「髪を切った」だけなのだ。

そこには、頭髪の量を調節し、形を整え、最終的には見栄えを向上させようというような意図や野心はなく、単に、余分なものを切る、という作業でしかない。この作業に一番近いものは、(この例えがどれだけの人に伝わるのかよくわからないが)プラモデルを作る時の「バリ取り」だ。
なんというか、店員さんにしてみたら、かなりやりがいのない作業なんだろうなあ、と思う。

ちなみに、頭髪の切り具合を注文をする時に店員さんに言うセリフで、今まで聞いた中で一番好きなものは「2か月前に戻してくれ」だ。ある日、他のお客さんが言っているのが聞こえてきて、その、時間旅行SF的な響きにえらく感心したものだ。どうでもいい話だが、僕がいつも言うセリフは、もちろん「バリ取ってください」になる(ウソです)。

先週の土曜から今週の日曜までが夏期休暇なのだ。
会社の人とは「まあ、休みを取ってもこのご時世じゃあねえ」みたいな会話を(チャットで)してみたものの、もともと超がつくほどのインドア派なので、今年の夏期休暇期間での活動量が例年の十分の一以下になった、ということはない。とはいえいくらか活動量は目減りしていて、今日時点で行われている夏期休暇中の目ぼしい活動は、「いつもの病院以外の病院でセカンド・オピニオンをお願いする」、「髪を切る」くらいのものだ。

セカンド・オピニオンをお願いした病院は、総合病院でもないのに診察室が20、待合室が 10もあるような、その筋では割と有名なところだ。
そこの院長の診察を(もちろん、僕の主治医が作った名指しの紹介状持参で)受けたのだが、朝の8時15分に受付をして、診察の順番が回ってきたときには11時を過ぎていた。さすがは人気病院の人気医師。こうでなくてはいけない。こちらは「評判の名医」にコメントをもらいに来た一見さんということもあり、こういう時、なんというか、ちょっと観光客のような気分になり、「どうせなら土産話になるような体験を」という、やや不真面目な楽しみ方をしてしまうのである。

朝からたくさんの患者をさばいてやや疲れた風合いの院長は、やや横柄ともとれる話し方も、患部を説明するための図をボールペンでぱしぱしと叩く様子も、ある意味でいかにもそれっぽく、どうせ「評判の名医」の診察を受けるなら、これくらいの体験はして帰らないと、という僕の希望は充分に満たされることになった。
もちろんこれは、たまに行く医者だから許させることで、通常、通っている病院がこういう状況だったらまた感想も変わるとは思う。

「評判の名医」からもらったコメントは、いつもの病院の主治医が言うことと大きく変わることはなく、これだけの情報を得るために費やした時間、という意味で考えるとなんとなく割に合わない気持ちにはなった。ただ、今回の場合、きっと「誰が診てもだいたい同じ見解」ということがわかった、ということが大事なのだ。
手術をするとか地道に投薬を続けるとか、いくつかある手段からひとつを選ぶのは結局のところ患者であり、それらの結果について、どれを選んだところで「絶対」と保証できるものはない、というようなことを言われたが、これも主治医からよく聞く話で、特に目新しいものではない。ただまあ、正直、「素人にそんなこと言われましてもねえ」という気分にはなる。いや、言いたいことはよくわかっているつもりなんだけど。

そういえば、「評判の名医」は「手術」という言葉をちゃんと「しゅじゅつ」と発音していた。これは主治医もそうなのだけれど、なかなかすごいことだと思う。僕などは、つい「しゅじゅちゅ」と発音してしまうのだ。とにもかくにも、おそらくこれが、今年の夏期休暇最大のイベント、ということになるのだろうなと思う。まあ、僕の夏への扉は、まだ閉じたわけではないけれど。

ところで、髪を切った件について、家族は誰も気づかなかった。
髪を切った私に、違う人みたいと言う人がいなかったということ自体には特に不満はない(けっこー切ったのだが)。
ただ、これが反対の状況、つまり、家族(妻か娘)が髪を切ってきたことについて僕が気づかなかったとしたら、大変な騒ぎになるのは間違いない、ということは書いておきたい。
そんなわけで、この文章のタイトルは『夏の扉』にした。
……何が「そんなわけ」なのか、自分でもよくわからないのだが。