平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

空気吸うだけ。

今年の1月2日が実は振替休日だということを知ったのは、1月4日水曜日のいわゆる仕事始めの日であった。

仕事机に置いてあるカレンダーにそのように記載されているのを見て、なんとも不憫な気持ちになったのである。
こんなにもかわいそうなことがあるのか、と。
こんなにも、誰にも喜ばれなさそうな振替休日、他にあるのだろうか、と。

1月2日にしても3日にしても、カレンダー上は平日であるにもかかわらず、暗黙の了解、というか、なし崩し式に、というか、一般的な認識としては、「ま、休日ということで」みたいに扱われることが多いのではあるまいか。
1月2日(そして3日)は休日扱いされる度にこう思っていたはずだ。
「本当の自分はそんなんじゃない」
外側から見た自分と本人(という言い方が妥当がどうかはひとまず置いておくとして)が思う自分のギャップに苦悩しつつも誰にも打ち明けることもできず、それどころか「三が日」というユニットに半ば強制的に加入させられる。三が日といえば晴れがましいもので、いわゆるハレとケであればハレの存在である。果たして自分はこんなところにいていいのか。自分はいつの間にか何かを、そして自分すらもだましてしまっているのではないか……。

そんな1月2日に、転機が訪れたのが今年なのだ。
元日が日曜ということで、2日が振替休日になった。元旦のおこぼれではあるけれど、あくまで臨時のことではあるけれど、1月2日は、晴れて正真正銘の休日になったのである。本当は平日なのに休日扱いされて、気まずそうにうつむきながら過ごさなくてもいいのである。

赤で「振替休日」と書かれたタスキをかけ、意気揚々と玄関のドアを開ける。
道行く人たち皆に挨拶をしたい気持ちを押さえてはいるものの、足取りはどうしても軽やかになってしまう。なにせ今日の自分は振替休日なのだ。何年かに一度しか訪れないラッキー・イヤーなのだ。
見知らぬ人とすれ違いざまに、ついつい1月2日はこんなことを言ってしまった。
「今日、振替休日なんです」
ついついついでに、タスキの上部と下部を左右の手でつまみ、強調するように前に突き出したりもしてしまった。その時の1月2日はそれだけ上機嫌だったのだ。

ところが、相手の回答はこうであった。
「それが何か」
せっかくのタスキをちらりとも見ず、そう言われたのだ。
世の中の人には、いや、やや大げさにいえば世界にとって今年の1月2日が振替休日であろうがなかろうが、けっこうどうでもいい話なのである。なぜって、1月2日はだいたいいつも休日だから。
うーん、これはきついぜ。
大丈夫だろうか1月2日は。心おだやかに過ごせているだろうか。

今年の1月4日、仕事をしながらそんなことを考えていたのだが、その夜、突然がんがん発熱し、あれよあれよという間に、あの「新型コロナウイルス感染症」というやつに罹患してしまったのである。ちなみに今しれっと「罹患」などと書いてみたが、これが「りかん」と読む「病気にかかったこと」を表す言葉だということは今回はじめて知った。会社に「コロナかかりました届」みたいな書類を提出したのだが、そこに書いてあったのだ。

幸い軽症だったので、薬を飲んでじっくりと熱が下がるのを待つ、というのが当面の作戦になった。薬といっても処方されたのはロキソニン、いわゆる普通の解熱鎮痛剤である。もしかするとコロナオールみたな名前の専用の薬が処方されるのかしらと思っていたのだが、そういうことはなかった。

軽症とはいえ頭痛発熱関節痛喉の痛みはそれなりにきつく、熱が下がるのを待つ間は「じっと横たわる」以外のことをほとんどしなかった。倦怠感と痛みのせいて本を読むとか携帯をいじるというようなことをする気がまったく起きず、ただただ布団の中でぼんやりと呼吸だけしていたのだ。
幸か不幸か、僕はいくつか病を得ているので、何もせず(というか何もできず)ただ横たわるという状態を維持するのがけっこう上手い。特にここ数年、そのスキルは上昇する一方だ。いかがわしい考え事もできないくらいに心身がまいってしまった状態で、ただ空気吸うだけの存在になる。そうなるべくしてそうしているからか、そこには悔しさややるせなさのような心の動きはなく、ただただ生きているだけだ。

そもそも何者でもなく、今後も何者にもなれなさそうな人間がただただ何もしないのだから、誰にも迷惑をかけることはない。そうしているうちに時間はどんどん過ぎていく。この文章を書いている今は2月の下旬になろうとしている時期なのだが、1月上旬のちょっとした出来事を書くのにこれだけの時間がかかっても、誰もも困りはしない。せいぜい僕が「おいおい」とかつぶやきながらくすりと笑うくらいのものだ。
ただ時間だけが過ぎていく、ということに慣れていき、そういう状態が体に染みわたる頃、ざっくりと言えば僕は宇宙に近づくのだろう。ものすごくざっくり言えばだが。

それはさておき、件の新型コロナ以下省略であるが、軽症とはいえなかなかやっかいな病であった。かかっちゃったらしかたないけど、極力かからないほうがいい。
なんだかとてもあたりまえのことを書いているような気はするが、なんというかこう、しみじみと体中でその「あたりまえ」を再確認したような気がする。

コズミック・ベロシティ。

今日はわりと過ごしやすい。
暑くもなく風もあり、窓を開けていればいい具合の風も入ってくる。小さい音で音楽を鳴らし、床に寝転がり、うだうだとどうでもいいことばかり考えて過ごしてやった。
考え事の合間には、最近、最新刊を買った『ダンジョン飯』の古い巻をぺらぺらとめくり、それに飽きるとうだうだと考え事をした。考え事の中身は、想像であり空想であり夢想である。赤面するような希望に満ちた想像もあれば赤面するほどまっすぐな空想もあれば赤面するようないかがわしい夢想もある。
もやもやと頭の中に浮かんだものを材料に、テキストファイルを作ることもある。もやもやしたものをもやもやしたままテキストにするとワケがわからんから、一応、日本語の文章に見えるように少し努力する(この文章のように)。

いつからか、強い雨や風の日に頭が痛くなるようになってしまった。
加えていえば、腰も痛くなるし、気持ちも悪くなる。いつのまにやらずいぶんと繊細な身体の僕なのである。
頭が痛いのも腰が痛いのも気持ちが悪いのもそれだけっちゃそれだけの話ではある。なので、そういう状況になっても仕事をしなくてはならない時は仕事をするし、どこかに出掛けなくてはならないのであれば外出だってする。
だからまあ、日常生活を送る上で致命傷、ということはないのだけれど、まったくもって不要な繊細さである。気温や気圧の変化を繊細に感じ取って体調を悪くするなんてどういうつもりだ自分(の自律神経だか三半規管だか、とにかくそういう関係各器官)と言いたくなる。
選べるものであれば、もっと違う繊細さが欲しかった。たとえば、「思うがまま髪の毛一本レベルの精度で対象に近づき、その触感や温かみを忠実にフィードバックしてくれる指」とか、「相手の心の揺れを巧みに察知し、その時々の最適解を発声する話術」とか、同じ「繊細」ならそういうのがよかった。
たとえば休日にこの繊細モードに入ると、一日ぐったりと気だるげに過ごすことになる。ふと考えてみると、気だるくぐったりしていようが桃色の翼をひろげ夢想の世界をノリノリで飛び回っていようが、ハタから見れば同じように見えるかもしれない。こちらの心持ちはかなり違うのだが、見た感じはどちらもだらしなくごろごろしてるおっさん。動かざること山の如し。ただ春の夜の夢の如し。←ちょっと思いついて書いてみただけで、これといって伝えたいことがあるわけではない。

ところで、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉があるが、実は、不健全な精神も健全な肉体に宿るのだ。ちょっと想像してほしい。体力が充実している時でなければ「最近会社で見かけるある女子の臀部はふくふくとしたたいそうなボリューム感であることがここ数日の観察により予想されるのだが、いつもぼんやりとしたシルエットのスカートで臀部を全部格納していてそれを確認することができない。なんとかその優美な曲線を目視することができないものか」といった、不要不急の最高峰というか、時間の無駄の極みみたいな妄想に体内のリソースを割けるわけがないではないか。

ベッドの上でうつろな雰囲気を漂わせつつぐったりとしている時に考えることは、だいたい飛距離も出なければどこにも辿り着くこともできない。自分の筋力の衰えと重力の強さを実感するだけだ。

健全な精神は健全な肉体に宿り、それどころか不健全な精神も健全な肉体に宿る。
なんとなく現世を生きるためのささやかなヒントになる気づきが埋蔵されていそうな雰囲気を感じたので、しげしげとここまでの文章を読み返してみたのだが、まったくそんなことはなかった。
残念。

ひみつ作戦決行日。

トイレを出たところで気を失い、そのまま倒れて壁に顔面をぶち当てて唇から出血しながら崩れ落ちるという、なかなかドラマチックな体験をしてしまった。

家族の話では、目を覚ました後、「トイレちゃんと流したっけ」と言い残し再度気を失ったらしい。その後目を覚ますことができて本当によかったと思う。もしもそのままだったら、辞世の言葉が、
「トイレちゃんと流したっけ」
になるところだった。

転倒時に頭を打った可能性があるし、顔面にやや痛みが残っていたので、近所の総合病院でCTスキャンをやってもらった。人生初CTスキャンである。
装置のおおげさなデザインといい、寝そべった寝台が微動しながら動く様子といい、低くうなる動作音といい、なんともSF感あふれる体験であった。
目を閉じた状態で寝台に横たわり、そのままトンネル状の装置に寝台ごと入っていくので、詳しい状況はよくわからないが、装置の中に進入するにつれてうおんうおんという動作音が大きくなり、頭頂部方向から白い光につつまれていくという演出は、「やばい、オレ、時空を越えてしまうかも」と思わせるエモさがある(いや、演出ではないか)。実は今回の転倒失神事件で唯一楽しみだったのがこのCTスキャン体験だったのだ。以前から、いつか機会があればあの装置の中に入ってみたいという興味はあったのだが、やりたい時にできるという類の体験ではないので、生きてるうちに一度はやってみたい、と常々思っていたのである。
とはいえ、初診料を含むとはいえ9000円近い搭乗料金(搭乗料金?)に見合うほどのエキサイティングな体験かと言われればそこまでではないな、というのが正直な感想だ。まあ、そもそもCTスキャンはそういう用途で作られたものではないので、当たり前と言えば当たり前の話である。
ちなみに、スキャンの結果に特に問題はなかったらしい。トイレでの排泄行為の後、血圧が急に下がるんだかなんだかで貧血状態になり、それが失神の原因になることがあるのだそうだ。

それにしても、今年に入ってから病院というか、医療な感じ(?)のところにばかり行っている。つまりライク・ア・医療だ(今、自分で自分が何を書いているのかよくわからなくなった)。

今回のCTスキャン体験は突発的な出来事であったにしても、僕の手帳のスケジュールのページに書いてある予定は通院とか人間ドックとかワクチン接種とか、医療な感じのイベントばかりだ。ページの端にかかれている電話番号は春から新しく通う病院の予約用電話番号だし、飼い犬の名前が書いてある日は動物病院に薬をもらいに行くことになっている。

体の壊れた部分を治すために病院に行くこと自体はとても大切な行動だとは思うのだが、ちょっと違った風合いのスケジュールも書いてみたいよな、というようなことをふと考えた。
そこで、しばし思案した後、とりあえず明日の予定のところに、
「ひみつ作戦決行日」
と書いてみた。ちょっと気持ちが高揚するかと思って書いてみたのだが、もちろんこれといって具体的な予定はない。ただ、書いた文字を眺めていると、かすかにうきうきと気持ちが持ち上がってくるような気がしないでもない。

はてさて、明日は何をしたものか。

胸部にまつわる10年史。

仕事が一区切りつき、ぬるいコーヒーを飲みながら東ハトのハーベストをかじっていた時のことである。
仕事部屋(兼寝室)のドアが少し開き、室内の僕が休憩していることを確認するくらいの間が開いた後、娘が「ちょっといい?」と言いながら入ってきて、僕のお菓子置き場から勝手にハーベストを出しつつ、こんなことを言ったのであった。

「お父さん、私、このままだとペチャパイ人生かもしれないや」

そう言い終わると同時に娘はハーベストをざくざくと食べ始めたのだが、その瞳からは、試練を受け入れる者が発する鈍い光が感じ取れた。親子とはそういうものだ。

仕事の合間の休憩時間に聞く「ペチャパイ」という単語はなんとも耳に新鮮で、

ペチャ・パイ
東南アジアで栽培される果実ペチャを使った焼き菓子。
ペチャが希少なこともあり、あまり作られることはなく、現地では「天国の蜜」とも称されている。

だの、

ペ・チャパイ
韓国の俳優。2000年代に人気を博した。
代表作『夏のあなた』、『恋の胴体着陸』など。

……というような、頭の中のいんちき辞典からうそっぱちの解説がぽろぽろとこぼれてきた。もちろん娘の言うところのそれはこれらのものではなく、自らの身体に関わるそれである。
娘はなおもこう言った。

「どうすればいいと思う?」

娘から「どうすればいいと思う?」と持ちかけられた父親など、この世界には大勢いるとは思うのだが、ここまでの難問はそうそうないのではないだろうか。これならまだ、「実は、世界の命運を分ける選択を私がすることになっちゃったんだけど、どうすればいい?」のほうが、すぐになんらかの答えを返せるような気がする。それが正解か不正解かはともかくとして。

娘は年齢のわりには童顔で体形もスリムだ。親の欲目というやつかもしれませんがそれはそれでかわいらしいように思えるのだが、本人としてはそういうわけにはいかないのだろう。冗談めかして言ってはいるものの、いたって真剣に自分の胸部問題に取り組んでいることは様子を見ればわかる。きっと、彼女なりに調査や対策をした上での「このままだとペチャパイ人生」発言なのだ。一般的に、彼女くらいの年齢であれば、自分の容姿に関連する諸問題はそれなりに重大なものだ。僕くらいの年齢になれば、達観というのかあきらめというのか、己の容姿について「まあ、人から通報されなけりゃいいや」というくらいの器の大きさを発揮することができるが、娘にはまだはやい。

こういう場合、そのままで充分素敵さ、などと言ってもあまり意味はない。それで納得できるのであれば、そもそもこの問題について頼りになるとは思えない僕になど、話しかけるわけがないのである。ちなみにこの件について僕から発信した最初の提案は「とりあえず牛乳をがぶがぶ飲んでみるのはどうだろう」だ。頼りにならないにもほどがある。

僕から有効な回答が得られるなどと思っているわけではないけれど、それでも誰かとこの問題を共有したい……というのが、しばらく話をしていてわかった娘の状況だ。母親にも同じ話題を持ちかけたらしいのだが、さすがは女同士というか、母親から「つまりどれくらいのボリュームが欲しいのか」という具体的な質問をされ、「最低でもお母さんくらい」と答えて以来、なんとなくこの話題を出しにくくなったのだそうだ。
小さな家族の中であっても、僕の知らないところで事件は起きているのだ。

さっきも言った通り、僕はこの話題についてあまりにも無力ではあるのだが、言いたいことはひとつだけあった。話が一段落したところで、その件について、僕は少しずつ話し始めた。けっこう前の話になるので、思い出すのが大変だったのだ。

それは10年ほど前のことになる。
ある日、娘がこんなことを言ったのだ。

「私も、大きくなったら、おっぱい生えるのかな」

この時期、身体の成長に伴い胸が膨らむことを、娘は「おっぱいが生える」と表現していた。僕の感覚からすれば、あれは膨らむとか隆起するというような表現が似合うような気がするのだが、当事者としての女性はまた違う印象を持つのだろうか。
「当事者としての女性」とはいえ、当時の娘の身体にそのような兆候はまったくなく、逆にいえば、いつか訪れるであろう未来について警戒していたのである。
おっぱいが生えるのはイヤなのか、と聞いたところ、返ってきた答えは「だって、気持ち悪いから」と言うものであった。言い方が難しいところだが、あれを気持ちの悪いものだと思って見たことがなかったので、その返答には少なからず驚いてしまった。

自分の体、それも目視しやすい前面が、だんだん膨らんでくる。それもふたつに分かれて、砂で作ったお山のように。

目を閉じてしみじみ想像してみると、たしかになかなか劇的な現象のような気もする。
とはいえおっぱいが生えなくなる方法など僕にわかるはずもないし、わかったところでそれを教えていいものかどうかよくわからない。
ためしに、この件について母親に聞いたのか確認してみると、最初は笑われて、その後、急に話が終わってしまったらしい。その時の状況を詳しく聞くと、「お母さんと同じくらいならまだいいけど、それより大きくなったら気持ち悪いと思う」と発言したら突然会話が終了してしまったのだそうだ。

僕としては、持てる知識を総動員して考えた挙句、

「たぶん、大人になると少しは生えてくるんじゃないかな。でもそれはしょうがないことなんだよ」

という、なんとも煮え切らない回答をするのが関の山であった。
娘は娘で、

「おっぱいなんて、生えなくてもいいと思う。なくても困らない」
「Sちゃんはおっぱいがないけど、赤ちゃんいるし」

と、おっぱいの存在価値みたいな話まではじめる始末で、「なくてもいい」とまでは思うことのできない僕はひたすら困惑した。
ちなみにSちゃんというのは娘にとって叔母にあたる人で、聡明かつ気さくでそのうえキュートな女性である。僕から見ると妻の妹、ということになるわけだが、基本的に人見知り体質な僕でも話しやすい雰囲気を初対面の時から発散しているような好人物だ。
胸部の状況についてはよく知らないがスレンダーであるのは間違いなく、一緒に風呂に入ったことのある娘に言わせると「おっぱい全然なかった」らしい。

最終的に娘は、①Sちゃんに「どうすればおっぱいの生えない大人になれるか」聞いてみて、②おっぱいが生えないようにうつぶせで寝ることを心がける、という決意表明をするのだが、①についてはSちゃんにさんざん笑われ、②については、もしかすると、10年後の娘になんらかの影響を与えた……のかもしれない。

この10年前の出来事について、娘はなにも覚えていなかった。
「いかにも私が言いそうなことだ」と苦笑しつつ、「どうしてその時、うつぶせで寝るのを止めてくれなかったかな」と口をとがらせて言ったのだが、(もちろん)本気で責めている口調ではなかった。

僕自身のことでいうと、この10年で変わったことがあるのかないのかよくわからない。さすがに、なにかひとつくらいありそうな気はするのだが、どうにも思いつくことができないのだ。
それにくらべて、娘のこの10年での方針転換ぶりはどうだろう。
10年前も今も、それは娘にとって重要な問題で、いろいろ考えた挙句、選択した方針は正反対になった。その時々で考えや価値観は変わり、思うことが変化していくのがむしろ人間として自然なことなのではあるまいか、などと大げさにいうつもりはないけれど、その時その時の娘を、僕はできるだけ尊重したいと思っている。

そういう意味で言うと、娘と僕の関係性は10年経ってもあまり変わっていないのかもしれない。
娘の言動にいちいち驚いたり首をひねったりしつつけっこう長い年月が過ぎたけれど、基本的にずっと娘を面白がって生活しているような気はする。これは娘だけに限定したことではないのだろうけど、人と関われば、今まで考えたことがなかった観点に気づかされることはよくあることだと思う。ましてそれが、娘という、自分にとって特別な、年の離れた異性ともなれば、一緒に生きているだけで、新しい経験をさんざんすることになる。
もちろん、面白がっているような状況ではない時期も何回かあったけれど、現時点ではそういう時期はそれほど長くはなかった(もちろん、今後のことはわからないけど)。僕は、いろいろな意味において、自分が良い親などとはとても思えないのだけれど、たまに、娘を面白がることについてはけっこう上手なのかもしれない、と思うことはある。そしてそれは、今も少しずつ上手くなっているような気すらするのだ。

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

歯医者さんにはかなわない。

何日か前のことだ。仕事中に突然、口の中で「めき」というような音がしたのである。舌で確認すると、奥歯がよろよろと揺れているような感触があった。口の中に指を突っ込んで、軽く触れてみると「ぐら」という感じでたやすく動く。
あわてて歯医者の予約を取り、昨日、処置をしてもらったのである。

処置といっても歯医者に「あー、こりゃもうダメですねえ」などと言われつつ口の中に何か器具を突っ込まれ、麻酔もしないでそのまま抜かれただけだ。多少、歯茎あたりが引っ張られているな、という感触はあったものの痛みはまったくなかった。本当に今日まで歯茎にしがみついていたのか、というくらいの無抵抗主義である。

歯医者から「持って帰ります? 奥歯」と聞かれたので、「持って帰ってもいいんですか」と聞き返したら、「そりゃいいですよ、あなたの歯なんだから」と笑われた。
抜かれた歯は看護師さんに渡され、しばらくしてから歯の形をしたケースに納められて返ってきた。こういうケースがあるということは、歯医者で抜かれた歯は、わりと普通にもらって帰れるということなのだろう。
軽い虫歯がありましたよ、とのことなので、「この機会に治しますかね」という話になり、受付で次回の予約をした。

本来あるはずの奥歯が1本ない、という状況は想像以上に違和感がある。つい奥歯のあたりを舌でレロレロしては、その廃虚感を味わってしまうのだ。

それにしても、というか。
やはり、というか。
歯医者さんにはかなわない。

何年も続く病院通いにほとほと疲れてしまい、「ええい決めた今決めた。もうこれ以上絶対に通院など増やすものか」などと言い始めていたこのオレ様が、ひとたび奥歯がぐらついただけで、いそいそと歯医者の予約を取り、あげく、虫歯の治療まではじめてしまうとは。
ちなみに↑の発言は今年9月のものである。我ながら、なんぼなんでも方針の転換がはやすぎる。とはいえ、これは僕の意思が弱いというよりも、人間誰しも歯のトラブルには弱いという、個人での対応範囲を超越した人間そのものの性質を原因とするもので、まあつまり、僕が責められたり失笑されたりする筋合いのものではない(と思う)。

今、メインで患っている病気(という言い方もなかなか味わい深いものだが)はかれこれもう15年くらいの付き合いになる。
どうして長々と付き合っているのかというと、治らない病気だからだ。なので、治療といっても基本的には薬で進行するスピードを抑えることしかできない。薬を使い、定期的に診察を受けて、うっすらと少しずつ悪化していくグラフを見ながら、主治医と相談をする、というのが基本的なルーティンになっている。

この病気がどれだけ悪化しても、それが死に直結することはない。ただ、目が見えなくなる。世の中には「命あっての物種」を代表とする、生きていればなんとかなる的な考え方が存在し、基本的に僕もそれに賛成はしたいものの、とはいえしかし、目が見えなくなるのはなかなかキツいのではないかとも思う。
アレを見ては面白がったり、コレを見てはむふふと鼻の下を伸ばしたり、といった楽しみのない世界で生きていくのはなかなかやっかいなことではないだろうか。

この病気を患って以来数十年(サバ読むな上に15年て書いたやないか)の間に、僕の中に「長生きしたい」という気持ちはすっかりとなくなってしまった。1年とか2年とかいうスパンだとそれほど気にならないけど、5年前と比べると確実に視界は欠落していて、今後生きている限りそれは止まらない。右目ではもう字を読むことはできないし、これと同じ状況が左目にも起きたら、などと考えるとそこで思考が停止する。残念ながら僕は写楽保介ではないのである。目がふたつ見えなくなった時点でおしまいだ。
だからといって、すすんで寿命を縮める努力をしているわけではないけれど、そういう設定の人生では、健康維持的なところになかなかやる気が出なくなるのだ。僕は体質的に血圧が平均よりやや高く、内科に通ってそれ用の薬をもらっていたのだが、それも去年からやめてしまった。眼科の主治医にすすめられて飲み始めた薬の副作用にやられてしまっていたり、それよりもなによりもちょうどコロナ渦ということもあったりして、いろんな言い訳をして内科通いをやめてしまったが、結局のところは、眼科通いだけでもうたくさんだ、と思ってしまったのである。

とはいえ、歯医者さんにはかなわない。
歯医者の予約を取るまでの自分の手際の良さを思い出すと、今でもちょっと面白い気分になる。というか、だからこそ、今回のこの文章を書こうと思ったのだ。
どこかに少しでも面白いところがないと、僕のような不真面目かつ無精な人間は、雑文ひとつ書こうとしないのである。それが数少ない趣味であるにもかかわらず、だ。

薬の副作用にやられて、薄暗い寝室でぐったりと横になっていると、時々「ああ、電池が切れかけた懐中電灯の光のように、このままゆっくりと少しずつ消えていくのかもしれない」みたいなことを考えることがある。それがまたなぜか不思議と悲しい感じではないのだけれど、一方、そういう時でも自分の中の奥底のほう、ファームウェアみたいなところで、面白いことや、くだらないこと、そしてもちろん(もちろん?)いかがわしいことなどのかけらのようなものをついつい探しているらしい。こういう自分のクセというか体質というかサガのようなものを、どうとらえればいいのだろう。あきれてしまう、というのが一番近い感覚になるのだろうか。

「もう病院なんか行くものか、などと思っていたくせに、いざ奥歯がぐらつくとテキパキと歯医者の予約を取り、あげく虫歯の治療までお願いしてしまう自分」
……まあ、改めて書いてみると、とりたてて面白いエピソードというわけでもない。そんなに面白くもないけれども、それでも、そういうかけらをついつい拾ってしまうみたい。

【備考】
ちなみに、写楽保介は、「しゃらくほうすけ」と読む。手塚治虫のマンガ『三つ目がとおる』の主人公で、額に第三の目があります。

夏の扉。

髪を切った。
自慢ではないが、僕の「髪を切った」は、そんじょそこらの「髪を切った」と同じにされたら困っちまうぜ、というくらいの「髪を切った」なのである。

つまり、本当に「髪を切った」だけなのだ。

そこには、頭髪の量を調節し、形を整え、最終的には見栄えを向上させようというような意図や野心はなく、単に、余分なものを切る、という作業でしかない。この作業に一番近いものは、(この例えがどれだけの人に伝わるのかよくわからないが)プラモデルを作る時の「バリ取り」だ。
なんというか、店員さんにしてみたら、かなりやりがいのない作業なんだろうなあ、と思う。

ちなみに、頭髪の切り具合を注文をする時に店員さんに言うセリフで、今まで聞いた中で一番好きなものは「2か月前に戻してくれ」だ。ある日、他のお客さんが言っているのが聞こえてきて、その、時間旅行SF的な響きにえらく感心したものだ。どうでもいい話だが、僕がいつも言うセリフは、もちろん「バリ取ってください」になる(ウソです)。

先週の土曜から今週の日曜までが夏期休暇なのだ。
会社の人とは「まあ、休みを取ってもこのご時世じゃあねえ」みたいな会話を(チャットで)してみたものの、もともと超がつくほどのインドア派なので、今年の夏期休暇期間での活動量が例年の十分の一以下になった、ということはない。とはいえいくらか活動量は目減りしていて、今日時点で行われている夏期休暇中の目ぼしい活動は、「いつもの病院以外の病院でセカンド・オピニオンをお願いする」、「髪を切る」くらいのものだ。

セカンド・オピニオンをお願いした病院は、総合病院でもないのに診察室が20、待合室が 10もあるような、その筋では割と有名なところだ。
そこの院長の診察を(もちろん、僕の主治医が作った名指しの紹介状持参で)受けたのだが、朝の8時15分に受付をして、診察の順番が回ってきたときには11時を過ぎていた。さすがは人気病院の人気医師。こうでなくてはいけない。こちらは「評判の名医」にコメントをもらいに来た一見さんということもあり、こういう時、なんというか、ちょっと観光客のような気分になり、「どうせなら土産話になるような体験を」という、やや不真面目な楽しみ方をしてしまうのである。

朝からたくさんの患者をさばいてやや疲れた風合いの院長は、やや横柄ともとれる話し方も、患部を説明するための図をボールペンでぱしぱしと叩く様子も、ある意味でいかにもそれっぽく、どうせ「評判の名医」の診察を受けるなら、これくらいの体験はして帰らないと、という僕の希望は充分に満たされることになった。
もちろんこれは、たまに行く医者だから許させることで、通常、通っている病院がこういう状況だったらまた感想も変わるとは思う。

「評判の名医」からもらったコメントは、いつもの病院の主治医が言うことと大きく変わることはなく、これだけの情報を得るために費やした時間、という意味で考えるとなんとなく割に合わない気持ちにはなった。ただ、今回の場合、きっと「誰が診てもだいたい同じ見解」ということがわかった、ということが大事なのだ。
手術をするとか地道に投薬を続けるとか、いくつかある手段からひとつを選ぶのは結局のところ患者であり、それらの結果について、どれを選んだところで「絶対」と保証できるものはない、というようなことを言われたが、これも主治医からよく聞く話で、特に目新しいものではない。ただまあ、正直、「素人にそんなこと言われましてもねえ」という気分にはなる。いや、言いたいことはよくわかっているつもりなんだけど。

そういえば、「評判の名医」は「手術」という言葉をちゃんと「しゅじゅつ」と発音していた。これは主治医もそうなのだけれど、なかなかすごいことだと思う。僕などは、つい「しゅじゅちゅ」と発音してしまうのだ。とにもかくにも、おそらくこれが、今年の夏期休暇最大のイベント、ということになるのだろうなと思う。まあ、僕の夏への扉は、まだ閉じたわけではないけれど。

ところで、髪を切った件について、家族は誰も気づかなかった。
髪を切った私に、違う人みたいと言う人がいなかったということ自体には特に不満はない(けっこー切ったのだが)。
ただ、これが反対の状況、つまり、家族(妻か娘)が髪を切ってきたことについて僕が気づかなかったとしたら、大変な騒ぎになるのは間違いない、ということは書いておきたい。
そんなわけで、この文章のタイトルは『夏の扉』にした。
……何が「そんなわけ」なのか、自分でもよくわからないのだが。

そんなことよりナッツトゥユー。

仕事で使っているメガネが見えにくくなってきたので、近所の大型スーパーに入っているメガネ屋に行くことにした。まあ、メガネの調子が悪くてメガネ屋に行くのだから、これ以上ないくらい当たり前の話だ。
これが、「仕事で使っているメガネが見えにくくなってきたので、近所の大型スーパーに入っている鮮魚店で思い切ってウナギを買ってみた。旬だし」だとずいぶんな変化球になってくる。もしかしたら、ウナギに含まれるなんらかの栄養に視力を改善する効果があり、長期的な視野で見れば僕のメガネ問題とウナギがつながってくる可能性もなくはないが、視力が改善するまでウナギを食べ続けるよりも、安いメガネを一本買ったほうがコスパが良いような気はする。
いや、だから何だ、という話ではあるが。

仕事をする時以外には使わないメガネなので、どうせなら今まで買ってきたものとは違うテイストのものを選ぶのも面白いかもしれないと思い、娘に声をかけて同行してもらうことにした。自分で選ぶとつい「いつもの感じ」のものを買ってしまう可能性が高いので、アドバイザーとしてついてきてもらったのだ。

ちなみにウチの娘は筋金入りのインドア派で、もしもステイホーム力検定というようなものがあったとしたら余裕で1級くらいは取れてしまいそうな逸材だ。なので当然、断ってくると思っていたのだが、どういうわけか今回はついてきた。自分で誘っておいて「どういうわけか」などと言うのもアレだが、それくらいステイホーム欲求が高い逸材なのである。
昨年から続くコロナ禍において、娘がまず最初に得た気付きが「目覚ましがなければ12時間眠れる」という能力を持っていることだったらしい。昼近くまで寝て、朝昼兼用の食事をして、その後に昼寝をして、夕方にまた起きて、犬の散歩に行き、帰宅後にゆっくり風呂に入り、夕食を済ませ、なんとなくテレビを見てから眠る……という生活がまったく苦にならない、というか、むしろ理想なのだそうだ。ここでついうっかり「あまり寝てばかりいると、もったいないという気分にならない?」というような質問をすると、「フー」などとため息をつきながら、ちょっと憐れむような目つきでこちらを見つつ、「ぐっすりと眠る以上の有意義な時間の過ごし方があるだろうか。あるなら言ってみなさい」みたいなことを言われる。のび太みたいなことを言う人間は本当にいるのである。

どうも僕は、娘がたまたま「外に出てもいいかもなあ」と思うタイミングに声をかけたらしい。ちなみにそのタイミングは、ハレー彗星の接近周期なみにレアなものらしく、そのタイミングで声をかけた僕は、なかなかの強運の持ち主なのだそうだ。どうやら、運というものは知らない間に無駄づかいしてしまうものらしい。

メガネ屋で、娘に言われるがまま、10種類くらいのメガネを試す。
けっこう真面目に選んでくれているようで、試したフレームがいまひとつだったりすると、「あー、なんかごめん」などと謝りつつ次のフレームをあわてて持ってきて励ますような口調で「ここから気持ちを切り替えていこう」みたいなことを言いながら渡してくれたりした。僕が自分で確認する前にフレームをチェンジされたりすると、さっきのフレームは僕の顔面でどんな大事件を起こしたのだろうかなどと心配になり、つい、「すみませんこんな顔面で」と、誰にともなく謝罪の意を表明するのであった。

最終的に娘が選んでくれたフレームは、僕史上もっともレンズがまるく大きいものであった。
ここ何年か角張った感じのフレームのものしか使っていなかったので、選ばれしフレームをかけてみて鏡を見ても相当な違和感を感じる。とはいえ、通報されそうな怪しさを発散しているということもなさそうだし、少なくとも悪者には見えなさそうだ。
これまでの人生で、二回ほど「殺人者のような顔」と言われた事のある僕としては、この辺のところは注意深く確認しないとならないのである。
ちなみに殺人者云々については、別の人物から、中学生の時と社会人になってからの一度ずつ言われている。ということはつまり「オレ、こう見えても若い頃はとても口では言えないくらい悪くってサ」みたいな、一過性の顔面デザイン変化ではなく、オールタイム殺人者顔面という可能性が高い。そもそも「殺人者顔」の定義がよくわからないっちゃわからないのだが、あまり好ましい風貌ではないことはけっこう容易に想像ができる。

フレームを選び終わると、娘は「買い物して帰りたいんだけど財布忘れちゃったから」と言いながら僕から1000円札を拝借して去っていった。

視力検査やらレンズ選びやら装着時の微調整といった「メガネ購入時の一連の流れ」をこなして帰宅すると、娘が待ちかねていたように冷蔵庫からアイスを出し、奥さんを交えた三人で食べることになった。
メガネ屋の入っている大型スーパーにあるサーティワンで買ってきたらしい。娘はポッピングシャワー、奥さんはキャラメルリボンで、僕のはナッツトゥユーだ。とにかく僕にはナッツを食わせておけば問題ない、という見立てなのだろうが、それはまったく大正解だ。サーティワンのアイスを食べるのは、たぶん、一昨年の年末以来だと思うのだが、その時もナッツトゥユーを選んだはずだ。

買ったばかりのメガネをかけて、アイスを食べながら、ふとメガネ屋の店員さんのことを思い出してみた。
店員さんは、前髪ぱっつんの可愛らしい女性で、視力検査の後、「ここにある機械では、レンズの度を調整することで視力が改善するのかどうか判定できませんでした。かかりつけの眼科医などで精密な検査を受けて、その結果を持ってきていただかないと、レンズの調節ができません」というようなことを言ったのだ。
もう長いこと目の病気を患っているから、こういうこともいつか起きるのかもなあ、とは思っていたのだが、いざ実際に音声で聞いてみるとそれなりの感慨がある。
店員さんは長い時間をかけてあれこれ調べてくれた上に、「こういう結果しか申し上げられない以上、今日はメガネのご購入をおやめになってもいいのではないかと思います」と言ってくれた。とりあえず、今までのメガネと同じ度にしてもらったのだが、それても、レンズが新しい分キズやくもりが少ないから、前よりは明るくよく見える。

これからは、メガネを新調する度に、かかりつけの眼科医の診察を受けなければならない。面倒だしお金もかかるなあ、と思ったり、少しずつ進行する症状のことを考えたりしながらアイスを食べたのだが、
そんなことよりナッツトゥユーはおいしい。

ところで、娘に貸した1000円札は、「お釣り」というひと言とともに、1枚の100円玉になって返ってきた。
まあ、美味かったからいいか、ということにする。