平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

胸部にまつわる10年史。

仕事が一区切りつき、ぬるいコーヒーを飲みながら東ハトのハーベストをかじっていた時のことである。
仕事部屋(兼寝室)のドアが少し開き、室内の僕が休憩していることを確認するくらいの間が開いた後、娘が「ちょっといい?」と言いながら入ってきて、僕のお菓子置き場から勝手にハーベストを出しつつ、こんなことを言ったのであった。

「お父さん、私、このままだとペチャパイ人生かもしれないや」

そう言い終わると同時に娘はハーベストをざくざくと食べ始めたのだが、その瞳からは、試練を受け入れる者が発する鈍い光が感じ取れた。親子とはそういうものだ。

仕事の合間の休憩時間に聞く「ペチャパイ」という単語はなんとも耳に新鮮で、

ペチャ・パイ
東南アジアで栽培される果実ペチャを使った焼き菓子。
ペチャが希少なこともあり、あまり作られることはなく、現地では「天国の蜜」とも称されている。

だの、

ペ・チャパイ
韓国の俳優。2000年代に人気を博した。
代表作『夏のあなた』、『恋の胴体着陸』など。

……というような、頭の中のいんちき辞典からうそっぱちの解説がぽろぽろとこぼれてきた。もちろん娘の言うところのそれはこれらのものではなく、自らの身体に関わるそれである。
娘はなおもこう言った。

「どうすればいいと思う?」

娘から「どうすればいいと思う?」と持ちかけられた父親など、この世界には大勢いるとは思うのだが、ここまでの難問はそうそうないのではないだろうか。これならまだ、「実は、世界の命運を分ける選択を私がすることになっちゃったんだけど、どうすればいい?」のほうが、すぐになんらかの答えを返せるような気がする。それが正解か不正解かはともかくとして。

娘は年齢のわりには童顔で体形もスリムだ。親の欲目というやつかもしれませんがそれはそれでかわいらしいように思えるのだが、本人としてはそういうわけにはいかないのだろう。冗談めかして言ってはいるものの、いたって真剣に自分の胸部問題に取り組んでいることは様子を見ればわかる。きっと、彼女なりに調査や対策をした上での「このままだとペチャパイ人生」発言なのだ。一般的に、彼女くらいの年齢であれば、自分の容姿に関連する諸問題はそれなりに重大なものだ。僕くらいの年齢になれば、達観というのかあきらめというのか、己の容姿について「まあ、人から通報されなけりゃいいや」というくらいの器の大きさを発揮することができるが、娘にはまだはやい。

こういう場合、そのままで充分素敵さ、などと言ってもあまり意味はない。それで納得できるのであれば、そもそもこの問題について頼りになるとは思えない僕になど、話しかけるわけがないのである。ちなみにこの件について僕から発信した最初の提案は「とりあえず牛乳をがぶがぶ飲んでみるのはどうだろう」だ。頼りにならないにもほどがある。

僕から有効な回答が得られるなどと思っているわけではないけれど、それでも誰かとこの問題を共有したい……というのが、しばらく話をしていてわかった娘の状況だ。母親にも同じ話題を持ちかけたらしいのだが、さすがは女同士というか、母親から「つまりどれくらいのボリュームが欲しいのか」という具体的な質問をされ、「最低でもお母さんくらい」と答えて以来、なんとなくこの話題を出しにくくなったのだそうだ。
小さな家族の中であっても、僕の知らないところで事件は起きているのだ。

さっきも言った通り、僕はこの話題についてあまりにも無力ではあるのだが、言いたいことはひとつだけあった。話が一段落したところで、その件について、僕は少しずつ話し始めた。けっこう前の話になるので、思い出すのが大変だったのだ。

それは10年ほど前のことになる。
ある日、娘がこんなことを言ったのだ。

「私も、大きくなったら、おっぱい生えるのかな」

この時期、身体の成長に伴い胸が膨らむことを、娘は「おっぱいが生える」と表現していた。僕の感覚からすれば、あれは膨らむとか隆起するというような表現が似合うような気がするのだが、当事者としての女性はまた違う印象を持つのだろうか。
「当事者としての女性」とはいえ、当時の娘の身体にそのような兆候はまったくなく、逆にいえば、いつか訪れるであろう未来について警戒していたのである。
おっぱいが生えるのはイヤなのか、と聞いたところ、返ってきた答えは「だって、気持ち悪いから」と言うものであった。言い方が難しいところだが、あれを気持ちの悪いものだと思って見たことがなかったので、その返答には少なからず驚いてしまった。

自分の体、それも目視しやすい前面が、だんだん膨らんでくる。それもふたつに分かれて、砂で作ったお山のように。

目を閉じてしみじみ想像してみると、たしかになかなか劇的な現象のような気もする。
とはいえおっぱいが生えなくなる方法など僕にわかるはずもないし、わかったところでそれを教えていいものかどうかよくわからない。
ためしに、この件について母親に聞いたのか確認してみると、最初は笑われて、その後、急に話が終わってしまったらしい。その時の状況を詳しく聞くと、「お母さんと同じくらいならまだいいけど、それより大きくなったら気持ち悪いと思う」と発言したら突然会話が終了してしまったのだそうだ。

僕としては、持てる知識を総動員して考えた挙句、

「たぶん、大人になると少しは生えてくるんじゃないかな。でもそれはしょうがないことなんだよ」

という、なんとも煮え切らない回答をするのが関の山であった。
娘は娘で、

「おっぱいなんて、生えなくてもいいと思う。なくても困らない」
「Sちゃんはおっぱいがないけど、赤ちゃんいるし」

と、おっぱいの存在価値みたいな話まではじめる始末で、「なくてもいい」とまでは思うことのできない僕はひたすら困惑した。
ちなみにSちゃんというのは娘にとって叔母にあたる人で、聡明かつ気さくでそのうえキュートな女性である。僕から見ると妻の妹、ということになるわけだが、基本的に人見知り体質な僕でも話しやすい雰囲気を初対面の時から発散しているような好人物だ。
胸部の状況についてはよく知らないがスレンダーであるのは間違いなく、一緒に風呂に入ったことのある娘に言わせると「おっぱい全然なかった」らしい。

最終的に娘は、①Sちゃんに「どうすればおっぱいの生えない大人になれるか」聞いてみて、②おっぱいが生えないようにうつぶせで寝ることを心がける、という決意表明をするのだが、①についてはSちゃんにさんざん笑われ、②については、もしかすると、10年後の娘になんらかの影響を与えた……のかもしれない。

この10年前の出来事について、娘はなにも覚えていなかった。
「いかにも私が言いそうなことだ」と苦笑しつつ、「どうしてその時、うつぶせで寝るのを止めてくれなかったかな」と口をとがらせて言ったのだが、(もちろん)本気で責めている口調ではなかった。

僕自身のことでいうと、この10年で変わったことがあるのかないのかよくわからない。さすがに、なにかひとつくらいありそうな気はするのだが、どうにも思いつくことができないのだ。
それにくらべて、娘のこの10年での方針転換ぶりはどうだろう。
10年前も今も、それは娘にとって重要な問題で、いろいろ考えた挙句、選択した方針は正反対になった。その時々で考えや価値観は変わり、思うことが変化していくのがむしろ人間として自然なことなのではあるまいか、などと大げさにいうつもりはないけれど、その時その時の娘を、僕はできるだけ尊重したいと思っている。

そういう意味で言うと、娘と僕の関係性は10年経ってもあまり変わっていないのかもしれない。
娘の言動にいちいち驚いたり首をひねったりしつつけっこう長い年月が過ぎたけれど、基本的にずっと娘を面白がって生活しているような気はする。これは娘だけに限定したことではないのだろうけど、人と関われば、今まで考えたことがなかった観点に気づかされることはよくあることだと思う。ましてそれが、娘という、自分にとって特別な、年の離れた異性ともなれば、一緒に生きているだけで、新しい経験をさんざんすることになる。
もちろん、面白がっているような状況ではない時期も何回かあったけれど、現時点ではそういう時期はそれほど長くはなかった(もちろん、今後のことはわからないけど)。僕は、いろいろな意味において、自分が良い親などとはとても思えないのだけれど、たまに、娘を面白がることについてはけっこう上手なのかもしれない、と思うことはある。そしてそれは、今も少しずつ上手くなっているような気すらするのだ。

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと