平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

歯医者さんにはかなわない。

何日か前のことだ。仕事中に突然、口の中で「めき」というような音がしたのである。舌で確認すると、奥歯がよろよろと揺れているような感触があった。口の中に指を突っ込んで、軽く触れてみると「ぐら」という感じでたやすく動く。
あわてて歯医者の予約を取り、昨日、処置をしてもらったのである。

処置といっても歯医者に「あー、こりゃもうダメですねえ」などと言われつつ口の中に何か器具を突っ込まれ、麻酔もしないでそのまま抜かれただけだ。多少、歯茎あたりが引っ張られているな、という感触はあったものの痛みはまったくなかった。本当に今日まで歯茎にしがみついていたのか、というくらいの無抵抗主義である。

歯医者から「持って帰ります? 奥歯」と聞かれたので、「持って帰ってもいいんですか」と聞き返したら、「そりゃいいですよ、あなたの歯なんだから」と笑われた。
抜かれた歯は看護師さんに渡され、しばらくしてから歯の形をしたケースに納められて返ってきた。こういうケースがあるということは、歯医者で抜かれた歯は、わりと普通にもらって帰れるということなのだろう。
軽い虫歯がありましたよ、とのことなので、「この機会に治しますかね」という話になり、受付で次回の予約をした。

本来あるはずの奥歯が1本ない、という状況は想像以上に違和感がある。つい奥歯のあたりを舌でレロレロしては、その廃虚感を味わってしまうのだ。

それにしても、というか。
やはり、というか。
歯医者さんにはかなわない。

何年も続く病院通いにほとほと疲れてしまい、「ええい決めた今決めた。もうこれ以上絶対に通院など増やすものか」などと言い始めていたこのオレ様が、ひとたび奥歯がぐらついただけで、いそいそと歯医者の予約を取り、あげく、虫歯の治療まではじめてしまうとは。
ちなみに↑の発言は今年9月のものである。我ながら、なんぼなんでも方針の転換がはやすぎる。とはいえ、これは僕の意思が弱いというよりも、人間誰しも歯のトラブルには弱いという、個人での対応範囲を超越した人間そのものの性質を原因とするもので、まあつまり、僕が責められたり失笑されたりする筋合いのものではない(と思う)。

今、メインで患っている病気(という言い方もなかなか味わい深いものだが)はかれこれもう15年くらいの付き合いになる。
どうして長々と付き合っているのかというと、治らない病気だからだ。なので、治療といっても基本的には薬で進行するスピードを抑えることしかできない。薬を使い、定期的に診察を受けて、うっすらと少しずつ悪化していくグラフを見ながら、主治医と相談をする、というのが基本的なルーティンになっている。

この病気がどれだけ悪化しても、それが死に直結することはない。ただ、目が見えなくなる。世の中には「命あっての物種」を代表とする、生きていればなんとかなる的な考え方が存在し、基本的に僕もそれに賛成はしたいものの、とはいえしかし、目が見えなくなるのはなかなかキツいのではないかとも思う。
アレを見ては面白がったり、コレを見てはむふふと鼻の下を伸ばしたり、といった楽しみのない世界で生きていくのはなかなかやっかいなことではないだろうか。

この病気を患って以来数十年(サバ読むな上に15年て書いたやないか)の間に、僕の中に「長生きしたい」という気持ちはすっかりとなくなってしまった。1年とか2年とかいうスパンだとそれほど気にならないけど、5年前と比べると確実に視界は欠落していて、今後生きている限りそれは止まらない。右目ではもう字を読むことはできないし、これと同じ状況が左目にも起きたら、などと考えるとそこで思考が停止する。残念ながら僕は写楽保介ではないのである。目がふたつ見えなくなった時点でおしまいだ。
だからといって、すすんで寿命を縮める努力をしているわけではないけれど、そういう設定の人生では、健康維持的なところになかなかやる気が出なくなるのだ。僕は体質的に血圧が平均よりやや高く、内科に通ってそれ用の薬をもらっていたのだが、それも去年からやめてしまった。眼科の主治医にすすめられて飲み始めた薬の副作用にやられてしまっていたり、それよりもなによりもちょうどコロナ渦ということもあったりして、いろんな言い訳をして内科通いをやめてしまったが、結局のところは、眼科通いだけでもうたくさんだ、と思ってしまったのである。

とはいえ、歯医者さんにはかなわない。
歯医者の予約を取るまでの自分の手際の良さを思い出すと、今でもちょっと面白い気分になる。というか、だからこそ、今回のこの文章を書こうと思ったのだ。
どこかに少しでも面白いところがないと、僕のような不真面目かつ無精な人間は、雑文ひとつ書こうとしないのである。それが数少ない趣味であるにもかかわらず、だ。

薬の副作用にやられて、薄暗い寝室でぐったりと横になっていると、時々「ああ、電池が切れかけた懐中電灯の光のように、このままゆっくりと少しずつ消えていくのかもしれない」みたいなことを考えることがある。それがまたなぜか不思議と悲しい感じではないのだけれど、一方、そういう時でも自分の中の奥底のほう、ファームウェアみたいなところで、面白いことや、くだらないこと、そしてもちろん(もちろん?)いかがわしいことなどのかけらのようなものをついつい探しているらしい。こういう自分のクセというか体質というかサガのようなものを、どうとらえればいいのだろう。あきれてしまう、というのが一番近い感覚になるのだろうか。

「もう病院なんか行くものか、などと思っていたくせに、いざ奥歯がぐらつくとテキパキと歯医者の予約を取り、あげく虫歯の治療までお願いしてしまう自分」
……まあ、改めて書いてみると、とりたてて面白いエピソードというわけでもない。そんなに面白くもないけれども、それでも、そういうかけらをついつい拾ってしまうみたい。

【備考】
ちなみに、写楽保介は、「しゃらくほうすけ」と読む。手塚治虫のマンガ『三つ目がとおる』の主人公で、額に第三の目があります。