平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

もうひとつの。:『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン・ハイエボリューション』のこと。

テレビシリーズ『交響詩篇エウレカセブン』第48話「バレエ・メカニック」を観るたびに僕は泣いてしまうのだ。
どうやらこの物語には僕が泣いてしまうスイッチをオンにする要素がずらりとそろっているようで、実験的にこの48話を2回連続で観たことがあるのだが、見事に2回とも泣けてしまった。ある意味で、とても相性がいいのだろう。
個人的にはこのお話に出てくるドミニクという男の子の声が好きで、彼がそれほど男らしくもない声で叫ぶという状況がすでにスイッチをひとつ入れているようだ。ちなみに、ドミニクの雰囲気が、音楽家の砂原良徳に似ているような気がしてしょうがない。

昨年公開された『交響詩篇エウレカセブン・ハイエボリューション1』は、個人的にはなかなかの傑作であった。
激しく早送りや巻き戻しを繰り返す映像や、どう考えても読ませる気などないだろうという大量の文字情報、そしてテレビシリーズと異なる設定など、文庫本をめくって物語を追うようなスタンスで受け取るとわけがわからなくなるような仕掛けが満載なのだが、そこに逆らわずに映画の流れに体を乗せるようにするとその途端に面白くなる。
そういう意味では、好きなアーティストの新曲を聴くような、もしくは、好きなバンドと知らないバンドが入り交じったフェスを観るような気分と似ているのかも知れない。知らないところもたくさんあるけど、聴いているとだんだん楽しくなってくるあの感じだ。
それでいて、映画が終わった後に、何らかの物語を観たような気になっているからたいしたもんだ……と、個人的には思った。

ハイエボリューション・シリーズ第2弾『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン・ハイエボリューション』は、上述した第48話に登場するキーパーソンであるところのアネモネ、ドミニクも出演するが、出演したからなんだっていうんですかというくらい、テレビシリーズと役割が違う。
舞台となる世界も設定も違い、名前と声くらいしか同じところがない(いや、肝心のアネモネの名前がちょっと違うのか)。1本の独立したSF映画として楽しめるといえば楽しめるのだが、じゃあこれを「エウレカセブン」の名前でやる必要があるのか、というようなことを、この作品を観はじめてしばらくは考えていた。

結局のところ、物語のある時点で、僕は「ああ、これは、エウレカセブンなんだなあ」と思うことになる。そのきっかけになったシーンの、エイゾウとコトバとオンガクが僕の体に入り込み「ああこれはもしかしたら」と気づくより先に、涙がだらだらと流れてきたのだ。
理解よりも感情の動きが先になったのは、使われていたオンガクのせいなのだろう。そういえば、その時僕は、こんなようなことも考えたのだ。

それならば、このエウレカもきっと、

さてさて。
その映画の内容にほとんど触れずに映画の感想を書くのはなかなか難しい。
目指すスタンスは反「ネタバレ注意」だ、というほど強いこだわりはないものの、「ネタバレズ注意不要」で、なおかつ書きたいことは書くというような文章を、頭をひねりながら作るのはわりと楽しい。

……まあ、出来上がった文章の出来についてはひとまず目をつぶるとして。

僕の頭のまわり、星が光ってた。:コーネリアス@東京国際フォーラム

ステージ上の大きなスクリーンに流される凝った趣向の映像に合わせて、コーネリアスが生演奏を行なう、というライブを観に行った。
『Cornelius Mellow Waves Tour 2018』というやつだ。
映像にあわせてきっちりと音楽を流すのであれば、大画面かつ良い音響の会場で、ミュージック・ビデオを上映するのとあまり変わらないのでは、そもそもコーネリアスと3名のバンドのメンバーですべての音を出せているわけでもないようだし……というようなことを一瞬だけ考えつつ、「そこはやはり、生で観るライブならではの何かがあるのだろう」と思いつつライブを観る。

実際それはその通りで、まさに、ライブならではの何かがそこにはあった。
それはおそらく、要素としては圧倒的な音量と光量ということになるのだろう。それらが整然と同期して目や耳や皮膚から体内に入ってくると、なんというか、身体の中で音と光が混ざったものが暴れだし、一見おとなしく椅子に座っているだけのようでいても、実はけっこう「ノッている」という状況になる。

ただ、どんなに音が大きくても光が明るくても、ふいにその状況に「慣れる」というところが人間のすごいところで、慣れた挙句にやや飽きた、というところもほんのちょっとあった。そういう時にふと思い出したのが、上に書いた「大画面かついい音響の会場で、ミュージック・ビデオを上映するのとあまり変わらないのでは」というやつだ。

ちなみに、コーネリアスのライブを観るのは『THE FIRST QUESTION AWARD』をリリースした時期のもの以来で、それはつまり20年以上前の出来事ということになる。そういう状況が生み出すちょっとした高揚感もあり、基本的には観るもの聴くものほとんどすべてが面白かった。

それはそうと、つい勢いでカセットブック(どうやらこれがツアーパンフらしい)を買ってしまったのだが、我が家にはカセットテープを聴くための機械がないのであった。
さてさてどうしたものか。

もうそれは過去のこと。:『2001年宇宙の旅』70㎜版特別上映。

70㎜のフィルムで『2001年宇宙の旅』を観ることができるという特別上映会に行ってきた。

この作品がはじめて公開されたのは1968年で、僕はまだ生まれていない。その後何度か行われたリバイバル上映のどれかを観たのがたしか中学生の頃だ(その時は35㎜版が上映されたらしい)。以降数十年、劇場のスクリーンでこの作品を観たことはなかった。

大きなスクリーンと大きな音、という環境で観る『2001年宇宙の旅』はなかなかいいものだ。
今回はフィルムで上映されるというところが大きなウリのひとつになっているが、そこに目新しさを感じるほど若くはなく、ああこれはフィルムっぽい色合いかもなあ、という懐かしさに、しみじみとした気持ちになってしまった。むかしむかし、映画はだいたいフィルムで上映されるものであった。その感覚に違和感を感じない僕のような人間は今、どれくらいいるのだろうか。

今回の上映会はなかなかの話題になっていたようで、前売り券はあっという間に売り切れてしまい、数少ない当日券を買うためには、会場が開く前からの行列参加が必須であった。
朝から会場をくるりと取り巻くようにできている行列はなかなか目立つもので、そばのビルで何やら工事をしようとしていた業者の人が、行列を整理している会場職員にその行列の意味合いについて質問していた。それに対する職員の答えは、「映画の上映があるんです。『2001年世界の旅』」というもので、さすがにこれは僕の聞き間違いのような気がしないでもないが、ただまあ、なんといっても50年も前の作品なのである。「SF映画や名作映画に興味があるのならタイトルくらいは知っていてもおかしくはない」などと思ってしまうのはやや古い世代で、いくらそこが映画を上映する国立の施設だったとしても、とっさにタイトルを言い間違えてしまう職員がいてもおかしくはないのかもしれない。そもそも「2001年」という年自体、もはや過去のことではありませんか。

哲学的、とか、難解な、とか、そういう解説がよく似合う作品だし、特にはじめて観た時に受ける「オレはいったい、何を観たのだ」という衝撃は捨てがたい魅力ではあるのだが、今回の上映については、ただただ美しい映画として、眺めるように観た。
大音量で体内に届く音楽と、その反対側にある極端な静寂。赤、黄色、緑の宇宙服に、白い船外作業用ポッドのつるりとしたヒップライン。操作パネルの光があたるボーマン船長の顔はとても男前で、宇宙空間はどこまでも暗い。そして船長と共に僕たちは洪水のような光を体験する。

”My god! It's full of stars.”(すごい! 降るような星だ)

大げさな音響と、美しい映像をただただ「すげえすげえ」と楽しめばいいのではないか、というのが今回の感想だ。
何回目かの観賞だから、こういういい加減な感想が出てくるのかもしれない。
相変わらず、途中で何ヵ所かウトウトしてしまうし。

3時間弱の作品を観るために、朝の7時から3時間も並んだのだが、もちろんそれくらいの価値はある作品だ、というのは僕の偽らざる気持ちである。
しかし、僕の前で観ていた若い女の子が彼氏と思われる男の子に言っていた「途中で寝ちゃったのは悪かったと思ってるけど、たまに目を覚ましても画面には、宇宙、宇宙、宇宙。どんだけ宇宙を観せられるのよって思った」というのもなかなかいい感想だなあ、と思う。

あなたがいるなら。

「ただ見てるだけで、なぜ、わけもなく、切なくなるのだろう。動くだけで、なぜ、意味もなく、どきどきしてくるのだろう」

「あなたがいるなら、この世は、まだ、ましだな」

その人が存在するだけで、「この世はまだましだ」と思えるような、そんな人がいるとすれば、それはなかなかすてきなことだろう。

コーネリアスの『あなたがいるなら』で描かれる「あなた」は、ありとあらゆるところにいる可能性がある。家族や恋人や友達というような直に触れられる人以外にも、液晶画面やイヤフォンや紙のページの向こう側にも、「あなた」はいるのかもしれない。

逆にいえば(いや、逆ではないかもしれないが)、家族や恋人だからといって、この場合の「あなた」になるとは限らない(ような気がする)。
そういう人たちを大切に思う気持ちとは少し離れたところに、「あなた」はいる(ような気がする)。
「あなた」は、自分との距離とはあまり関係なく、どきどきさせたり、切なくさせたり、うれしくさせたりする。その期間は1時間かもしれないし、もしかしたら50年かもしれない。いつの間にか「あなた」が地球の裏側にいる別の人になっていたり、別の「あなた」に入れ替わっていたり、昨日までいなかったはずなのに突然近くにあらわれたりする、ということもあるかもしれない。

手や、目や、耳で、触れることのできるところに、「あなた」がいるということは、なかなかすてきなことだろう。

それでは、僕にはそういう人がいるのだろうか、というようなことをふと考えてみる。

再来週に観に行くライブの予習も兼ねて……というほどのことでもないのだが、この曲が含まれているコーネリアスの最新アルバム(『Mellow Waves』。発売は1年以上前なのだが)をよく聴いている。そこそこ年季の入ったファンなので「コーネリアスがこういう曲を歌うようになるとはねえ。ついこないだ、悪魔みたいなツノつけて「月の上でムーンウォークしながら君の家を探すのさ」みたいな曲を歌ってたのになあ」などとつぶやきつつ、静かにじっくりと聴いている。

コーネリアスは静かに歌う。
「見てるだけで」
「いるとわかるだけで」
「声を聞いただけで」

僕にもそういう「あなた」がいる。
ごく正直に書くと、意外なことに、いた、という感じだ。
即座に思いつくことができず、ゆっくりとじっくりと考えて、ようやく気付くことができたのだ。
この文章を書くまで、それははっきりとはわからなかったことで、今、わりとどきどきしている。

この曲は、こう繰り返して終わる。
大事なことは繰り返すのだ。

あなたがいるなら。
あなたがいるなら。