平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

タフでハードな一大事。

会社のトイレで用を足していた時のことである。
僕の立つ位置の背面にある個室から、ずっといびきが聞こえていたのだ。その音量はそれなりに大きく、狭い個室から発せられているからか低く響いていた。

僕は、それについて、「会社のトイレでよく眠れるものだな」とは思わない者だ。
人はけっこうどこででも眠れるものだ。大事な人の葬式の最中とか、走行中のバイクの後部座席とか、看護師から手術の説明を受けている最中とか、「お、そこで寝ちゃうのかい?」というような局面でも、意外と眠れてしまうのが人間という生き物なのである。ちなみに、葬式とバイクは個人的な経験、手術の説明時のやつは、数年前に僕が手術を受けた時に家族がやらかした驚きの行動だ。

バイクの後部座席で居眠りをしたのはもう数十年も前のことで、細かいことはよく覚えていない。たしか、目が覚めたときの状況が走行中のバイクの後部座席で、両方の腕も手のひらも何もつかんでいない上に上半身は後ろに傾いていたのである。そのままほったらかしていたらのけぞったまま座席に別れを告げ、もしかしたらそのまま人生ともお別れしていた可能性もあったはずだ。
その状況から復帰するために行ったことについて、すべてを思い出せるわけではないのだが、とにかく腹筋を大活躍させたのは間違いない。「筋力」という言葉そのものに縁のない僕のような者でも、やればできるものだなあ、といたく感心したものだ。よく言われるところの「人間というものは、日頃はその潜在能力の数パーセント(だか数十パーセント)しかつかっていないのである」というヤツは、きっと本当なんだろうなあ、と、その時の経験から思うのである。

それはそれとして、僕の今までの人生の中で会社のトイレで寝たことはあっただろうか。会社で眠くなること自体はしょっちゅうあるけれど、トイレで眠ってしまうほどの事態になったことはないような気がする(たぶん)。
自席でも休憩室でもなく、トイレで眠るというシチュエーションは、どうしても「よほど疲れていたのだろうな」と思わせるところがある。個室で眠る彼に何があったのか知る由もないが、たとえば昨夜、タフでハードな一大事があったのかもしれない。

会社のトイレの個室といえば、時々……僕の体感的な感覚でいえば、3ヶ月に1回くらいの頻度で、そこで電話をしている人の声が聞こえてくるのだ。
これもまた僕にとっては未体験の世界である。そもそも電話がかかってくることがほとんどない人生を送っているからか、排便というごくデリケートでプライベートな時間の途中で着信があり、しかもそれが即座に通話しなくてはならないような相手だった、という経験がないのである。
デリケートでプライベートなあのひとときを中断せざるを得ない着信とは。
やはりそれは、タフでハードな一大事なのかもしれない。

平穏で退屈な我が人生なのである。