平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

最終的にはクライベイビー。

会社に行く途中、歩きながら聞いていた落語がなかなかいい話で、不覚にも少し涙が出てしまった。
ぽろぽろとこぼれてくる、というような量でもなかったので、そのままほったらかして歩いていたのだが、僕は涙を流すと顔が大げさに赤くなる傾向があるので、付近を歩く通勤中の人々には、目尻に涙をためて赤い顔をして会社に向かっている中年男、に見えているはずだ。

「朝、泣きながら出勤している人がいた」

もしかしたら、たまたま目撃してしまったどこかの誰かびっくりしていたかもしれない。

「泣きながら出社する会社とは?」

そしてこのように、モヤモヤした疑問を抱いたまま一日を過ごしているかもしれない。もしもそんなことがあったら、ちょっと申し訳ないな、と思う。

歳を取ると涙もろくなるというのはどうやら本当のことのようなのだ。
加齢により筋力が衰えれば涙を止めておく水門担当の筋肉だって弱くなる。もっといえば不用意にオナラが出ないように通常は閉まっている門の筋肉や、尿意を感じたときに即放水しないように活躍している筋肉だって弱っていくわけで、涙腺に限らず、生きていれば水漏れに関する性能は全体的に弱るものなのだ。これは誰かに教わったとか何かに書いてあったとかいう知識ではなく、実感としてそう思う。

とはいえ。
身体の各所にある水漏れ要注意ポイントの中で、今一番弱いのが涙腺だ。
子供の頃の僕の涙腺はとても強固なものだった。少なくとも、物心ついてからの少年期に涙を流した記憶はほとんどない。とはいうものの平均すれば年に一回くらいのペースでは泣いていたような気もするので、「年一回泣いてるなら充分多いじゃないか」という人がいたら返す言葉はない。
涙が出るほどの肉体的な痛みを感じたこともあまりなかったし、うれしいことにせよ悲しいことにせよ、涙が出るほど心が動くこともほとんどなかった。喜怒哀楽が表情に直結しているような、よく泣きよく笑うクラスメートと自分をくらべて、「もしかしたら僕はちょっとおかしいのかもしれない」と思ったこともある。

「何事についても、ここまで心が動かないのはさすがに異常なのではないか。……もしや僕はなにか精神的な病気なのでは」

というような心配は、すればするほどエスカレートしていくもので、

「というよりもしや、感情を抑制するための手術をされた改造人間、いや、そのための機械を埋め込まれたサイボーグということは考えられないだろうか。時々体内に感じる重い違和感は、埋め込まれた機械のせいなのではなかろうか」

半ば本気でそんなことを考えてしまうあたり、さすがは中学生だ。ちなみに(違和感を感じるほど)体が重かったのは、単に太り気味だったからなのではないかと今は思う。
とにもかくにも、それほどまでに、涙とは縁のない人生を送っていたのである。

ところが、だ。
今のこの涙腺のゆるさはなんだ。
いったいいつからこんなことになったのか、我が身心ながら大変不思議なことである。
少年期にはそんなに活発に動かなかった心が、年齢を重ねるにしたがってぐらぐらと動きやすくなっている。昔の僕には心を動かすために必要な何かが欠落していて、どういう理由と製造法なのかはわからないけど、それが少しづつできあがっていった……みたいな話なのだろうか。そもそも、「できあがっていった」という表現でいいのだろうか。できあがった「それ」とは、何を材料としているのだろう。

そのへんの事情はよくわからないが、今となっては、世の中の様々な事象が、物語が、エピソードが、体験が、音が、光が、僕の涙腺を刺激する。人生史上、今が一番泣き虫だ。それが困ったことなのか、それともそうでもないとことなのか、よくはわからないのだけど。