平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

カメラとトーク。‐そしてすべてわかるはずさ‐

今、通勤している現場では、三年に一度、入館証の更新を行う。
入館証には氏名会社名が印刷されそのそばには顔写真が添えられている。写真は更新の度に新たに用意するのだが、事前に申し込めば先着数十名は管理課の職員が撮影してくれる。それを逃すとスピード写真なり写真屋なりで自分で調達しなくてはならないので、当然のように申し込む。もちろん、この「当然のように」は僕にとっての「当然のように」であり、万人に対応する法則ではない。他の社員が見ていないところで、気のすむまでじっくりと撮影したい人もそれなりにいるという噂を聞いたことがある。男子よりは女子、中年層よりは若年層に、じっくり派は多いそうだ。
まあ、気のすむまでじっくり撮影したいと思うような素材を持っていない僕は、職員撮影お手軽コースを選ぶのである。

撮影は小さな会議室で行われる。ドアから見て右の壁にブルーのシートが貼ってあり、その前に椅子が置かれている。その椅子の正面には大型の三脚が設置してあり、そこに冗談みたいに小さなデジタルカメラが取り付けられている。入館証に貼る顔写真程度の写真ならそれで十分だとは思うものの、そうすると三脚が無駄に立派なのが気にならないこともない。デジタルカメラにしろ三脚にしろおそらく管理課の備品だと思うのだがこのバランスの独特さはなんだ。
撮影用の椅子の反対側の壁際にも椅子がいくつか並べてあり、被撮影希望者は自分の順番がくるまでそこで待つことになっている。椅子に座り、「カメラと三脚のミスマッチ感について」というテーマで考え事をして時間をつぶす。

ご時世というかなんというか、撮影希望者は皆マスクを着用している。
「ゴムの跡が写っちゃうといけないから、そろそろ順番がまわってくると思ったら、マスク外してくださいね」
撮影担当の職員が順番待ちしている女子社員にそんなことを言っている。撮影担当とはいえ、普段は管理課として管理課なりの作業をしている人なのだろうけど、撮影している様子を見ていると、けっこういろいろアドバイスやリクエストをしてくるのがわかる。

「ゴムの跡が気になるんだったら、軽くほっぺたを叩くといいですよ。赤くならない程度に(笑)」
「もうちょっと表情をやわらかくしたいですね。ちょっといいことを考えてるときみたいな」
「歯を食いしばったりしないで、あまり真面目な顔をしようと思わないほうがいい」
「アゴあと三センチ左。で、軽く引いて。肩は逆に右を二センチ前に」
「ちょっとだけ笑ってみましょうか。明日の自分のために」

何者なのだこの人は、という熱血撮影ぶりなのだ。
うっかりすると「ほらツンとすまして上向いて、右手をほおにあててみて」とか言い出しそうな勢いだ。そして撮影にかける時間は男子より圧倒的に女子のほうが長い。とにもかくにも、そもそもこの職員は写真を撮るのが好きなんだろうな、という気配はよく伝わってくる。

さてさて。
僕もご多分にもれず、あれやこれやと熱心にアドバイスをされた。アゴの向き、肩の方向、目線の高さ等々をセンチ単位で微調整され、より自然な表情を生成できるように「最近、一番癒されたこと」について思いだすよう指示を受けた。
僕は僕なりに数々の注文を忠実にこなすべく努力をした(僕は基本的に従順な人間なのである)のだが、カメラ背面の液晶画面を見つめる職員は今ひとつ納得できなかったようで、数秒間思案した後、彼はこんなことを言ったのであった。
「メガネ、外してみましょうか」
僕は会社にいる時間の99%以上メガネを着用している人間なのである。そういう人間の裸眼の顔写真が、入館証に添付するものとしてふさわしいものなのだろうか。そしてここでメガネを外してしまったら、彼の要求はますますエスカレートし、気が付いたら「いいですよとてもいいですよ。次はブラウスのボタンをふたつだけ外してみましょうか。そのほうがもっと表情がよくなるんじゃないかなあ」などと言われたりしないだろうか。一瞬の間にいろいろな思いが頭の中をぐるぐると駆け回ったのだが、結局のところ僕はメガネを外し、やっと納得した職員が数度シャッターを押して撮影は終了した。個人を識別する目的で撮られる写真でメガネを外したのは、僕の経験上、はじめてのことであった。

「ここだけの話なんですけど、あなたの写真、かなりよく撮れました。今のところ今日イチです」
撮影が終わり椅子から立ちあがろうとしていた僕に、職員は小声でそうささやいた。そして、カメラの液晶画面を僕の方に向けて、たった今撮影した画像をちらっと見せてくれたのだが、残念ながらその液晶画面はよく見えなかった。なぜならその時点で僕はまだメガネを外していたからだ。

撮影した人全員に同じようなことを言っているのだろうか、とは思ったものの、僕の撮影時間は男子としてはかなり長いほうだったし、撮影した画像を見せてもらっていた人も(男子としては)僕の他にはいなかったはずなので、「なにかの偶然が重なって、たまたま通常時よりも男前に写ったのかもしれないな」程度の期待をした。僕はとても人相が悪くて「殺し屋みたいな顔してる。仕事が終わった後の」などと言われるような人間なのである。この手の写真を撮られるたびに、どうか「指名手配される殺し屋」みたいな写真になっていませんように、などと思う人間なのである。

出来上がった入館証に貼られていたのは、びっくりするほどくたびれた中年男の顔写真であった。手入れの行き届いていない髪には白髪が目立ち、目の下にはクマがあり、肌のつやもない。というか、そういう個々のパーツの問題よりもなによりも、全体から漂う「くたびれ感」がハンパないことになっている。
ただ、この中年男の年齢が何歳くらいに見えるかと問われれば、それはどう見ても僕の実年齢くらいなのだ。なんというか、年齢分の時間をかけて、僕はずいぶんとくたびれちゃっていたのである。「いや違うオレはもっと若々しく猛々しいはずなのに」とは思わないけれど、思えば、自分の中の「オレ像」がずいぶん長いこと更新されていなかったような気はする。これはなかなかの発見であった。

週末にはあれもしよう、これもしなければ、などと金曜の夜には思うくせに、土曜の午前中どうしてもベッドから出られないとか、会社の帰りにコツコツ読んでる文庫本が半年経っても読み終わらないとか、そういうことがあるたびに「もっとちゃんとしないとなあ」とか「なんだかもったいないことしてるなあ」などと思っていたのだが、これだけくたびれた人間ならそれもやむなし、という気になってくる。
あの日あの時あの職員はどういう意味合いでこの顔写真を「よく撮れた」と言ったのだろう。とにもかくにも、少なくとも殺し屋には見えないし、僕はわりとこの写真が気に入っている。