平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

対決モスキート。

部屋の中に蚊が出没するようになり、僕の睡眠を妨げるようになった。
この部屋に住むようになってかなりの年月を過ごしてきたが、蚊が出たのは今シーズンが初めてかもしれない。

明日も仕事だ、そろそろ寝なくてはならない、という頃合いに聞こえてくるあの羽音。
年齢的にかなり疎くなっているモスキート音ではあるものの、耳元で鳴らされるともう眠ることができない。空しい蚊との攻防が行われ、時間はどんどん過ぎていく。

「蚊が気になって眠れなかったので、今日は休みます」

……というような理由で会社は休めるものなのだろうか。いや、上司にLINEで「休む」と宣言すれば休むことはできるのだろうが、問題は翌日のような気がする。

少しづつ蓄積される眠気と、そうであるにもかかわらず眠れないという焦りは僕を気弱にする。ふと気づくと、蚊に対して、人類史上最大限の譲歩ともいえる提案を持ちかけそうになっていた。

「血はやる。かゆくするのも許す。だから、あの音は止めてくれ。眠れないから」

そこまで困っているなら、なんらかの蚊対策グッズを購入するべきだろうと自分でも思うのだが、どういうわけか会社の帰り道ではうっかりと忘れているのだ。ならば休日にということで、週末に近所のショッピングセンターに出向き、今日こそは……と思いつつも、ふと気づくと牛乳とコーンフレークは買ったものの蚊対策グッズだけ買い忘れる、というような事態になっている。
これは僕という人間に問題があるというよりも、蚊が何らかの呪いをかけているとみたほうがいいのではないか、と思う。

残念ながら、この件について家族の協力は期待できない。
我が家では、蚊に刺される人間はなぜか僕だけなのだ。僕ばかり蚊に悩まされるという状況に家族は同情してくれるものの、その口調はどこか棒読みだ。その上どいつもこいつも虫関連が大の苦手ときていて、たとえば殺虫剤のパッケージに描かれた虫のイラストすら触ることができないのである。

家族は頼ることができない。ならば自分で何とかするしかないが、寝不足と蚊の呪いのせいで譲歩案まで考えてしまう今日この頃なのである。

こんな時、ふと思い出すのが知人のアナグマさんだ(もちろんニックネームである)。
アナグマさんは僕に輪をかけて蚊に刺されやすい体質で、強力な虫よけスプレーをインターネットで取り寄せ、体中に噴霧してたら自分の体調が悪くなったりするような人だ。会社からの帰り道、たまたま同じ横断歩道で信号待ちをしたことがあったのだが、その短い時間にもしっかりと蚊に刺される人でもある。ちなみにそこには大きな桜の木があり、その周辺にはささやかな緑もあるといえばあるのだが、僕はそこで蚊に刺されたことはない。そういえば、「蚊に刺されるから」という理由で、いつかの夏に行われた屋外での飲み会をキャンセルしたこともある。

iPhoneに標準搭載されているキーボードで、「蚊」と入力しようとすると、変換候補に蚊の絵文字が登場することを教えてくれたのもアナグマさんだ。その絵文字についてのアナグマさんの感想は「虫唾が走る」というものであった。
蚊に対するアナグマさんの敵対心は相当に本気なのだ。おそらくアナグマさんの辞書には、「譲歩」という言葉は掲載されていないのだろう。

「蚊を、この地球の歴史から消し去ってやりたい。その影響で、その後の歴史が改変されることになったとしても」

もはやちょっとしたSF大作なみの規模感を持つアナグマさんの声明が僕の胸によみがえる。
一時の気の迷いとはいえ、譲歩案を策定していた僕とは大違いだ。

っていうか、今日こそは蚊対策しよう。