平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

夏のピークの火事のこと。

夕方が終わり、そろそろ夜になりますよ、という時間帯に、突然、火災報知器の音が聞こえてきた。まあ、「突然」とは書いたものの、事前に予告してから鳴る火災報知器というものもないような気はする。

僕の住む地域は、小さなマンションやら一戸建ての住宅やらがひしめきあっていて、ごくたまに、どこかで火災報知器が鳴ることがある。その後大騒ぎになることはほとんどないので、大半が誤動作、というか、火事以外の煙に反応して鳴る、という事象のようだ。
火災報知器のやっかいなところは、そこそこ大きな音で鳴り、それもどこか耳障りな音色であるにも関わらず、どこで鳴っているのかよくわからないという点にある。僕の耳が悪いのか、もしくは建物が密集しているという状況が影響しているのかわからないけど、どこかそれほど遠くないところで鳴っているものの、その音はそこかしこから聞こえてくるような気がするのだ。

僕はベランダに出て、左、正面、右と顔を動かし、火災報知器が鳴っている場所に目星を付けた。音は四方から聞こえてくるような気がするが、右方向の音圧がやや高めっぽい。僕はその方向にある小ぶりなベージュのマンションを音源と断定して、リビングに戻った。

娘と犬は散歩中、奥さんは買い物中ということで、ここぞとばかりに腕がちぎれたり体が真っ二つになったりするような映画を観ていると、今度は消防車のサイレンが聞こえてきた。サイレンの音はどんどん近くなる。あのベージュのマンション、本当に火事だったのかな、かわいそうに、などと思っていると、サイレンの音はますます近くなってくる。これは近い、近すぎる(十万石まんじゅう)。
外の様子を確認するために玄関のドアを開ける。僕の住むマンションは上から見ると「ロ」の字になっていて、部屋から出ると上下階の「ロ」の字の内側の空間を見渡すことができる。
僕が部屋から出て、階下の様子を見ようとしたタイミングと、エントランスの自動ドアから消防隊員が入ってきたのがほぼ同じであった。エントランスの外側から、消防車の赤いランプの光が見える。消防用のホースが「ロ」の内側から上の階に伸びていく。階段を見るとリズミカルな小走りで続々と消防隊員が上の階に向かっている。
まわりを見ると、同じ階の住人たちがきょとんとした様子でドアから顔を出している。隣りの部屋の人が、誰にともなくこんなことを言った。
「え、ウチ、火事なのかしら」
僕は僕で、「誰だよさっきベージュのマンションがどうのこうの言ってたのは」みたいなことを考えていた。

消防隊員に続いて警察の人と救急隊員が上の階に向かい、ひとまず階段は静かになった。おそらく今なら誰の邪魔にもならないだろうと判断し、階段を駆け下りる。
一階のエントランスではマンションの管理会社の人と警察の人がなにか書類を見ながら話している。消防隊員は上の階に向かって何か叫んだり、(よくはわからないけど)ホースになんらかの調製をしたりしている。ちょっと話しかけられる状況ではないように思われたので、そのままマンションを出て、集まっている野次馬のひとりに声をかける。
野次馬が言うには、4階の窓から煙が出ているようで、消防隊員たちから聞こえてくる話を総合すると、部屋の中に入ってみないと正確なところはわからないものの、大規模な火事ではなさそうだ、とのこと。自宅の火事について野次馬に質問するというのもなんとなく屈辱的な事のように思われなくもないが、マンションの中からは炎や煙を見ることもできなかったし、それっぽい臭いもしなかったのだからしょうがない。
それにしても、ウチのような路地裏に建つきわめて慎ましいマンションでも、火事ともなるとこんなに(といっても20人くらいだけど)人が集まるんだなあ、と感心した。スマートフォンを構えて「決定的瞬間」を狙っている人もいて、写される側になってみると、こういうのってなかなか腹立たしいものだなあ、とも思った。

煙が出ているところを一応確認したほうがいいような気がしたので、火災に対処して下さっている方々の邪魔にならないように、かつ、野次馬どもを蹴散らしながら移動する。どこに移動すれば煙が見えるのだろうか、などと思いつつカニ歩きをしていると、野次馬を避けながらウチの奥さんが近づいてくるのが見えたので合流する。奥さんにしてみれば、買い物から帰ってきたら自宅に人だかりができていて、火災報知器が鳴り響く中、赤いランプを光らせた消防車が数台停まっているのである。マンション内部にいた僕とはまた違った驚きがあっただろう。

消防隊員なり警察の人に話を聞きたいところなのだが、なかなかタイミングがつかめない。火事の状況も知りたいし、このまま部屋に戻っていいものか、という話もある。煙が出ている4階といえば僕の部屋のふたつ上なのだ。もしかしたら避難したほうがよかったりするかもしれない。
話の聞けそうな人を探している最中、奥さんは小さく「どうしよう」と繰り返しつぶやいていた。自宅マンションの火事というインパクトの大きい出来事に、冷静さがやや目減りしているのかもしれない。ここは、僕が何か述べるべきところだろうなと思い、こう言った。
「こうなった以上、まずは落ち着こう」
……本当ならこの後、「なるべく冷静に情報を集めて」とかなんとか言う予定だったのだが、そのコメントは彼女にさえぎられた。彼女は、こんなことを言ったのである。
「落ち着いてる場合じゃないよ!せっかく買ったアイスが溶けちゃうでしょうが!」
この非常時にスーパーで買ったアイスの心配をしてどうする……とは思ったものの、それに続く彼女の発言に僕はおおいにあわててしまい、その時たまたま視界に入った消防隊員がひとりで何か書類に記入をしているところだったのをいいことに、大急ぎで駆け寄り、現在の火事の状況を確認したのであった。
アイスが溶けちゃうでしょうか!のあと、彼女はこう続けたのである。
「白くまアイスもあるんだから!」
白くまアイスがあるのなら話は別なのである。

件の消防隊員はとても親切であった。
彼はまず「お騒がせしております」と頭を下げた。いやいやどちらかといえばお騒がせしてるのはウチのマンションの住人でしょう、と思わなくもなかったが、まあ、そう言うのがルールなのだろう。僕は作業を中断させたことを詫び、現在の状況と、住人として今後どのように行動すればいいか聞いた。避難を勧められた場合、散歩中の娘と犬が帰ってくるのをどこかで待たなければならないだろうな……というようなことを考えていると、彼は簡潔にこう答えたのであった。
「今、4階で火災が起きています。が、とりあえずご自宅にいてください」

……火災が起きているけど自宅にいていい、という言葉がうまく呑み込めないでいると、彼は補足するようにこう言った。
「でも、くれぐれも注意はしてくださいね」

その後、消防隊員の言うとおり、自宅で形の崩れたアイスを食べつつ待機をした。
しばらくは火災報知器が止まったり鳴ったりを何回か繰り返し、ばたばたと人の行き来する気配がしていたが、2時間くらい経ったあたりから徐々に静かになっていった。外に出ると4階までひっぱられていたホースはなくなっていて、あきらかに「撤収!」というムードになっていた。先ほどの消防隊員と目が合ったので軽く会釈をすると、彼は「お騒がせしました。すべて落ち着きました」と言い、一礼したのであった。
住んでいるマンションで火災が起きているのに、自宅待機。
そういうこともあるんだな、と思った。

……というのが、昨日の話である。
「まるで何事もなかったように」という言い回しが今日ほどジャストフィットする日もそうそうないだろう、というくらい、まるで何事もなかったように、今日という日ははじまったのであった。
昨日あんなにどきどきしていたのは、果たして本当にあったことだったのだろうか……などと一瞬思ったものの、マンションの掲示板に貼られていた管理会社からの通達には、火事は小さなものであったこと、被害者はいなかったこと、火元になった部屋以外に燃えた部分はなかったことが記されていたのであった。結論から言ってしまえば、ごく小さなボヤを相手に過剰にあわてていただけなのかもしれないが、あの時のどきどき感は相当なものであった。

はじまったばかりの今年の夏休みではあるものの、もうこれ以上のピークはないだろうな、と思った。