平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

海を見にいく。

海岸沿いを、海を見ながら歩きたい。

ふとそんなことを思い、電車に乗って海を目指す。

海に向かう電車はあまり混んでいない。この電車はいくつかの都内の代表的な大型駅に停車するので、観光目的の乗客以外に、普通に通勤で使う人も使っている。一応、通勤ラッシュの時間帯は避けてみたけれど、通勤途中の会社員っぽいは何人かいるようだ。もちろんこれは、見た感じでそう思っているだけで、本人にそう確認したわけではない。白いワイシャツ、濃い色のパンツ、黒の革靴をセットで着用している人をそういう風に決めつけているだけだ。
そういう意味では、くたびれたTシャツ、くたびれたジーンズ、くたびれたスニーカーを着用している僕は他の人にはどういう風に見えているのだろう。そのまんま「くたびれた人」だろうか。ただ、同じ組み合わせのものを着ていても「味がある」とか「渋い」とか言われる人もいるということは経験的に知ってはいて、この世界とはかくも不思議なものよ、と思ったりする。
いや、それほど不思議なことではないのかもしれない。

電車の中で、図書館で借りた文庫本を開く。
それは短めのミステリーで、その第一章にあたる部分を読む。この章には、その後のストーリーに関わる断片的なキーワードのようなものがぽん、ぽんと置いてある。スタンリー・キューブリックの映画、ターシャ・テューダーの料理のレシピ、元号改定にまつわる雑学などなど、これらのピースがこれからはじまる物語にどう関連してくるのか、さっぱり想像がつかない。
ちなみにこの物語と同じ作者の別の短編で、犯人の名前が僕と漢字換算で75%同じだったことがある。75%というのがどういうことかというと、たとえば僕の名前が「山田太郎」だったとしたら、犯人の名前が「山田太一」だったということだ。小説内に仕掛けられたトリックよりもこちらのほうにびっくりして、その後、この作家の本を時々読むようになった。僕の名字はものすごい珍名ではないものの、「山田」よりはやや珍しいということもあり、けっこう本気で驚いたのである。それ以来、この作家の小説を読むようになったのだが、興味を持ったきっかけが「作中の犯人の名前が自分と似ていたから」だったとは、さすがの恩田陸でも気がつくめえ。

乗換駅で名物の焼きソーセージを買い、パンにはさんでもらう。パンは白くて柔らかくて丸いやつだったので、これをホットドッグと呼ぶことはできない。まあ、呼ぶことはできないな、と思っただけで特に不満はなく、それは手の中で美味そうな匂いを放っている。

小さな電車に乗り換えて、10分くらいで海に到着する。駅前のコンビニでビールを買い、早歩きで海を目指す。なにせ「海を見ながらビールを飲む」のである。今日はここまで、なるべく水分を摂らないようにしているのである。そりゃあ、無意識のうちに早歩きになるのも当然というものだ。太陽の光で首の後ろのところがじりじりと焦げるのを感じながら、大急ぎで歩く。

海岸沿いに見つけたベンチに座り、よく晴れた空の下で海を見ながら食べたソーセージは格別に美味く、そしてビールは信じがたいほど美味かった。ビールは飲むそばから体内に吸収されていき、感覚的には500ミリリットルのビールをふた口くらいで飲んでしまったような気がする。
ちなみに、ビールは細野晴臣がCMに出ているやつを選んだ。花澤香菜のCMのやつとどちらにするかけっこう迷ったのだが、今日の気分はやや細野晴臣強めだったのである。書いてみた思ったのだが、「今日の気分はやや細野晴臣強め」というのはなかなか味のある言い回しだ(と思う)。
それはそれとして、「石原さとみのCMのやつ」ではなく「花澤香菜のCMのやつ」と書いてしまうのは明らかに娘の影響で、花澤香菜の歌はわりとよく聴いていたりする。

ビールを飲み終わると、海岸線に沿っててくてくと歩いた。海は青く、空も青く、なんだか大げさなくらいに波の音が「ざざーん」と低音を響かせている。太陽の光はあくまで強く、体のそこら中から汗が噴き出している。時々立ち止まってはぼんやりと海原を眺め、「海も空も青い」などと見たまんまのことを言ってみたりする。

どうして海に行きたくなったのか、かちりと筋の通った理由は思いつかないが、それはきっと、その理由についての要素と条件が複雑に交錯していて、さくっと把握するのが困難になっているのだろう。うまく把握はできないが、海に来るべき理由はきっとあるのだ(たぶん)。サイコロを振ったら「海」と書かれた面が出てきた、というのとはわけが違うのである(たぶん)。

飽きるほど歩いて、飽きるほど海を見たら、海岸沿いを走る電車に乗り込むのだ。そして海から少し離れたところにある、冷房のよく効いたあの甘味処で、しみじみとあんみつを食べるのだ。

というようなことを考えながら、てくてくと歩く。
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