平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

腰痛にトイプードル。

ある平日の朝、目が覚めた僕は、「これは大変なことになったぞ」と思ったのであった。

まずは体が動かない。いや、動かそうと思えば動かせないこともないのだが腰から激痛が走る。前の日の午後、仕事中に突然腰が痛くなり、一晩経過し朝がきて、僕の身体は起き上がるのも困難な状況になっていたのだ。

仕事中に「あれ、ちょっと腰が痛いかも」と思った時点ではまだ歩行にそれほどの支障はなく、痛む腰をかばうことで若干ギクシャクした動きにはなるものの、C3POくらいの姿勢や動作で移動することができたのだ。ところが退社時刻になる頃には人類前夜というか、お猿さんのような前かがみの姿勢以外では腰が痛むようになっていた。
よくよく考えてみれば、その時点で我が人生においてはかなりの珍事だったのだが、それでも「ゆっくり風呂に入って睡眠時間をながめにとればなんとかなるのではなかろうか」などと思っていたのはなぜだろう。いや、かなりの珍事だったからこそ正確な現状認識とそこから導くべき予測を失敗してしまったのかもしれない。

結局のところ、その日は朝からの出社をあきらめて、自宅から徒歩3分ほどのところにある診療所に行くことにした。
腰を痛めたお猿さんのようなポーズで、ゆっくりじっくりと6分ほどかけて診療所に向かう。いつも歩いている近所の路地も、ゆっくりと歩くことでこれまで見逃していた新たな発見が……というようなことは特になく、単に腰が痛いだけであった。「あたたたた」などとつぶやきつつ歩く自分にふと「ケンシロウかよ」などと感想を述べる。その言葉の流れの手垢のついた古臭さについ笑ってしまい、それはそれで腰が痛むのであった。

診療所で治療を受けたあと、午後から出勤したのだが、痛みはかなり軽減したもののスタスタと歩けるわけでもなく、通勤時間は通常時の1.2倍ほどかかってしまった。

患っている箇所が体にいくつかあると、何か行動しようという気持ちが起きにくくなる。腰を痛めてからの数日間、仕事中も、通勤途中の電車の中も、自宅でも、ほとんどなにもせずに過ごしていたような気がする。本を読む気も、携帯をいじる気にも、音楽を聴く気にも、ましてや仕事をする気など、これっぽっちも起きなかった。何をしようとしても体のどこかの患っている部分が邪魔をする。そのわずらわしさが面倒になるのだ(それにしても、ここ数日の「仕事をしているふり」が、特に何も問題を起こしていないのは我ながらすごいことだ。長年の実績がこういう時にモノを言うのだろうか)。

そういえば。
この腰痛騒ぎで最大の苦痛は、診療所に行った日の早朝、犬に背中のあちこちを丁寧に踏みつけられた時のものであった。
もちろん犬に悪気はなく、ただ、自分が行きたい方向に飼い主の体があってもそれについて特に気にしないというだけの話だ。たとえば、リビングから犬用ビスケットの袋を開ける音が聞こえてきて、そこに向かう最短距離に飼い主の体があれば躊躇なくそれを踏んでいくのが彼女の流儀なのである。
ベッドにうつぶせに横たわる背中から腰にかけてを、ややホップ気味に移動する四肢が僕の痛覚を致命的に刺激した瞬間、度を超した痛みには声も出ないという事実について(まさに)痛いほど思い知った。
ここまでの痛みを経験するのは初めてのことだろうか、それとも、かつて同程度の痛みを味わったことがあっただろうか。そんなようなことを僕の脳は考えようとしたが、考えはうまくまとまらなかった。それどころではない痛みだったのである。
激痛に遠のく意識を必死で現世に引き留めながら僕が考えたことは、「トイプードルでよかった」ということだ。そして、健闘むなしく薄れゆく意識の中で、最後に脳裏に浮かんだことは、「これがセントバーナードだったら大変なことだよ」なのであった。