平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

はたらかない細胞。

朝、喫茶店でモーニングのゆで玉子を食べていて、ふと、僕がこの世で一番好きな玉子料理はゆで玉子なのではないか、という疑問、というか、可能性の獣が頭の中を駆けめぐり、どこかへと去っていった。
厳密にいえば、一番好き、というのはちょっと違うかも知れない。たまに、無性に食べたくなるときのその欲求度が、他の玉子料理とくらべて一ケタくらい高いような気がするのだ。

そもそもゆで玉子を「玉子料理」に入れてしまっていいのだろうか、という疑問もないではない。特に、今回、想定しているのはいわゆる固ゆで玉子、ハードボイルドなエッグなのである。黄身の微妙なかたまり具合をコントロールするような、微妙な駆け引きは必要としない。

ただ、「ゆでただけの玉子を料理などと言えるか!」と言うのは簡単だが、それはそれで新たな問題が発生するだろう。それはもちろん、「ゆで玉子が料理ではないのなら、じゃあなんなんだよ」という問題だ。ゆで玉子が、「何日か放置してたらこうなってました」とか「牝鶏って、時期によってはこういう玉子を生むことがあるんですよ」というようなものではなく、水を用意したり加熱したりといった人間の働きかけを必要とする以上、ここはやはり、料理とすべきなのではないだろうか。
ここ数行、なんとなく行数のみ稼いではいるが、特にこれといって意味のあることを書いてはいない。

これが僕だけのこだわりなのか、一般的な傾向なのかわからないが、ゆで玉子が好き、といっても、ゆでた玉子だけではそれは食べ物としての魅力をほとんど発揮しない。そこには(できれば多めの)食塩の存在は必須条件で、そう考えると、玉子と塩の力関係は、カレーとライスくらいのバランスで拮抗しているのかもしれない。
そういえば僕はお赤飯もなかなかに愛好している者なのだが、これもごま塩があってこそのものであって、そういう方向からよくよく考えを進めてみると、なんだかんだいって結局のところ単にしょっぱいものが好きなのかもしれない。ただ、それならば塩だけなめていればいいじゃないか、ということになりかねないが、舌バカ選手権北東京代表を自認している僕でさえ、さすがに塩だけで「これはこれでアリ」とは言えず、塩が必要不可欠なものであることは間違いないのだが、あくまで主役は玉子でありお赤飯なのである。

ひとり暮らしをしていた学生の頃の話になるのだが、数日間冷蔵庫にも財布にもなにも入っていないという期間があり、その時はしかたなく食卓塩をなめて生きていた。その時の経験からいっても、食卓塩はそれ単品では食品としての魅力はほとんどないということは確かだと思う。一応、水と塩だけあれば人間は何日か生きられるらしいが、それとこれとは別問題だ。

ここまで書いたのでついでに書いておくと、冷蔵庫にも財布にもなにも入っていないという状況に陥った場合、もしも醤油があればそれをお湯でうすめて飲むことで急場をしのぐことをおススメしたい。医学的にどうのこうのという問題以前に、食卓塩をなめるよりは数段、料理を味わっているという気分になれる。それだけでだいぶ気持ちにゆとりができるのだから人間とは不思議なものだ。

これはよく知られた話だが、玉子の黄身、つまり卵黄は、それでひとつの細胞なのである。中学生くらいのときにそれを知り、ひどく不思議な気持ちになったものだ。
玉子の黄身という、あまりにも身近なアレが、実は1個の卵細胞という、うまく説明できない種類の、漠然とした不思議。
思えばその時、僕は「生命の神秘」みたいなものに少し触れていたのかもしれないが、その後、僕の脳細胞は神秘を探求するほうには使われず、「黄身がひとつの細胞なら、玉子焼きは細胞焼きか」、「たとえば炒り細胞とか」、「細胞かけごはんって、インパクト強すぎ」など、そういう方向に駆使されることになるのであった。

卵細胞から脳細胞に話題をつないでオチとするという、なかなか小粋な技を使ったような気になっていたのだが、改めて読み返すとそうでもないようだ。
非常に残念だ。