平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

午後8時の疾走。

会社からの帰り、自宅の最寄り駅から歩いている時に、僕の少し前を歩いている男性と、僕の少し後ろを歩いている女性がケンカをしていることに気付く。
声の調子とセリフの量から考えると、ケンカというよりは女性が男性を一方的に責めているようにも思える。そもそも同じ方向に向かうふたりが一緒に歩いていないという時点で、なにかよろしくない事態になっているのは間違いなさそうだ。声の調子と勢いで、そのやりとりが平和なものではないことはわかるのだが、言葉そのものの情報量が少ないので、何について揉めている、もしくは責めているのかよくわからない。ただただ、女性が発する悪意のある言葉が後方から飛んできて、僕の前方の男性の背中を襲っているという状況なのである。
放たれた言葉、それも悪意のあるものはそれだけで力を持っているので、その言葉がぶつかる後頭部にチリチリとした刺激が走る。その部分の毛が抜けて円形脱毛症になるかもしれない。僕は歩行速度を「早歩き」にチェンジして、前方の男性を追い抜くことにした。

駅前から少し歩くと小さな交差点があり、僕が到着した時には信号は赤であった。
信号が変わるのを待っていると、数秒後に僕の左横1メートル半くらいのところに人が立つ気配がした。それが先ほどの男性だと思ったのは、僕の右横1メートル半に立った人物が左方向に向けて悪意のある言葉を放出しはじめたからだ。
まずい、このままでは右の耳たぶが溶けるかもしれない。
信号が青に変わったら、今日の残存体力のすべてを使い、走ろう。
そう小さく決意する午後8時なのであった。