平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

手足のおもり、恋するおもい。

公園の中を、颯爽と走り抜けていった男の人の両手には小さな鉄アレイが握られていたのであった。そうやって走ることでより効率的な筋力アップが望めるということなのだろうか。鉄アレイを除いたスタイルはジョギングする人そのものなので、僕がひいふう言いながら通勤しているこの時間帯を、体を鍛えることに使っているということなのだろう。
えらい。えらすぎる(十万石まんじゅう)。
なんにせよそれは、太陽は僕の敵、とばかりに朝の光に顔をしかめつつ同じ公園を通り過ぎる僕には、とてもまぶしい光景に見えたのであった。

……という話と似ているようで似ていないエピソードをふと思い出した。
かつて同じ現場で仕事をしていた人(以下、ヌクメントさんと表記する)が、手首と足首におもりを装着していたのである。それは一見リストバンドのような形をしているのだがしっかりと重く、たとえば思い切り窓に投げつければガラスが割れてしまいそうなくらいの存在感があった。
一見おとなしそうで、属性としてはアニオタであったヌクメントさんが手足におもりを装着することになった原因は当時付き合っていたガールフレンドにあった。ちなみにそのガールフレンドも同じ現場で働いていて、僕も面識があった。メガネがよく似合うちょっとした美人で、たしか少し年上だったように思う。
彼女は自分が「ちょっとした美人」であるということをよく自覚していて、たとえば休憩時間に信玄餅を食べながら「私くらいキレイに可愛らしく信玄餅を食べられる人間ってそうはいないと思うし、信玄餅の会社としても私をマスコットガールにしないというのは営業的な大きな損失だと思うの」みたいなことを真顔で言ったりしていた。
彼女の面白いところは、「私ってちょっと美人」ということをストレートに臆面もなく表明するわりには、それがイヤミな感じにもうぬぼれた感じにもならないことで、背の高い人が「俺ってほら、背が高いじゃん」と言うような感じで「私ってほら、ちょっと美人じゃん」と言われれば、ああそうですね、とフラットな気分で言うことができた。

ヌクメントさんと彼女は同じ現場で同じ仕事をしている間に意気投合し、付き合うことになった。ただ、彼女には旦那さんがいて、僕がふたりが交際していることを知った頃には、旦那さんは彼女のことを疑いはじめていたらしい。
ヌクメントさんが、彼女が結婚していたことを知ってて付き合ったのか、それともそのへんのことは後から知ったのか、そこのところはわからない。なんにせよ、その事実を知った後も交際を止めなかったのだから、それはいわゆる浮気とか不倫とか呼ばれる状態であった。

ふたりがそういう状態であるということを知って、まず思ったのが、「そういうことは、誰にでも起こり得るものなんだなあ」ということだ。遠い別世界の出来事とまではいわないけれど、それまでは「浮気」とか「不倫」というようなことは、もっと「それをするのがふさわしい」人がすることで、少なくとも僕の近所に「それをするのがふさわしい」人はいないと思っていたのだ。「それをするのがふさわし」くなるための条件というのもよくわからないが、少なくともヌクメントさんがそれをするということについて、当時はかなり違和感を感じたものだ。

とはいえ、ものすごくシンプルに考えてしまえば、「好きになった人がたまたま結婚していた」とか「結婚した相手よりもっと好きになれる人に後日出会ってしまった」ということはそれほど不思議な話ではないのだろう。それはもうなんというか、人の心の機微みたいな話以前の、確率とか統計とかいう分野の話として……と、今は思う。
問題はそういう状況になった時にどうするか、ということになるのだろうが、ヌクメントさんが何をしたのかというと、手足におもりを装着したのである。
「ふたりの秘密の交際について、相手の夫が薄々感づいているらしい。だから有事の際に備えて体を鍛える」
ヌクメントさんの秘密の恋物語の途中で僕は他の現場に異動になってしまったので、その物語を最後まで見届けてはいない。なので、そのトレーニングの結果が有効に機能することがあったのかどうかよくは知らないのだか、風の噂で「とうとうヌクメントさんの自宅を突き止めた旦那さんが乗り込んできて、持参してきたバッグの中からは出刃包丁が」という話を聞いたことはある。せめて半分くらいは誤報であってほしいと思う。

ちなみにその噂を聞く少し前、旦那さんは別の容疑者に目を付けていた。妻の携帯電話の通話履歴やメールを盗み見て、目星をつけた「浮気相手候補」に、電話をかけたりしていたのである。
どうして僕がそんなことを知っているかというと、その電話が僕にかかってきたからだ。
その日は休日で、僕はどこかに出かける途中であった。僕は女の子と一緒に歩いていて、彼女とは「事前に許可をもらえていればお尻を触っても怒られない」くらいに仲が良かった。それは色彩に欠けた僕の人生にとっては画期的といっていい、色鮮やかな時期のことであった。

知らない電話番号からの着信は基本的に相手にしないことにしているのだが、あまりにもしつこいので出てみると、相手の男性は短く名乗り、その後、「あなたが浮気している女の夫です」と言ったのであった。
それについての僕の感想は、「これは大変なことになったぞ」というもので、その後しばらく続く一問一答に、自分でも驚くほどたどたどしい日本語で挑んだのであった。それまでの人生で、人妻の浮気相手の容疑者になったことがなかったということもあり、「こういう時は冷静にならなければだめだ」と思いつつも心臓はそれなりびバクバクと大騒ぎになっていて、結果、日本語能力がうまく機能しなくなってしまったのだ。
旦那さんの質問は、何月何日のメールにこういうことが書いてあるが、それはどういう意味なのだとか、何月何日には複数回電話をしているが、それはどんな内容だったのか、というような内容だった。それらの質疑応答と、いくつか交わした言葉のあと、どうやら僕の容疑は晴れたらしく、彼は、「こっちはもういっぱいいっぱいなんだから、まぎらわしいことはしないでくれ」と厳しい口調で言った。それに対して僕は、つい「以後、気を付けます」と言ったのだが、今から考えると、その場の回答としてそれはどうなのよ、という返答だと思う。

さて。
通話が終わるとさっきまでそばにいた女の子がいなくなっていた。
はるか前方を早足で歩く彼女の後ろ姿を見て、僕は「本当に怒った人間は、後ろ姿を見ただけでわかる」ということを知ったのであった。後で聞いた話によると、携帯電話に向かって話す僕の言葉からおそろしい勘違いをして、そのまま怒り心頭、もしくは「激おこぷんぷん丸」あるいは「ムカ着火ファイヤー」という状態になったらしい。これは余談になるが、こちらの誤解を解くために、先ほどの電話の3倍くらいの時間を要したのであった。

あっちでも怒られてこっちでも怒られて、その上、基本的に無実なのに超低姿勢を強いられるという、ここまでの「ふんだりけったり」は、そうそう経験できるものではないと思う。

以来、運動用のおもりを見ると僕はこのエピソードを思い出すようになったのだが、そこで思い出す内容は「人を恋することのやっかいさ」というようなものではなく、「なんだよオレだけ損ばかりじゃねーか」という、実に器の小さい遺憾の思いである。ただ、あれだけ一方的に怒られればそう思ってしまうのも無理はない……とまでは言わないが、それはなんともしんどい、理不尽な出来事だったのだ。