平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

その笑顔の行き先は。

通勤途中のとある路地に、小さなアパートがある。そこはたしか女子専用で、外観はいかにも昭和のアパートっぽいのだが、小洒落たカタカナの名前が付いている。

僕がそのアパートのわきを通ったとき、ちょうどその建物から女の子が飛び出してきた。彼女はしばらく小走りをして駅の方向、つまり僕と同じ方向に向かっていたのだが、ふと立ち止まると振り返り、アパートのほうに向かって手を振った。その体の向きから想像すると、彼女の部屋は2階にあるのだろう。

彼女は誰に手を振ったのだろうか。
外観と時々見かける住人たちを見る限り、比較的若い単身者向けのアパートのように思われるので、遊びに来た家族とか友達、もしかしたらこっそり忍び込んだ彼氏、というあたりが妥当かもしれない。
もしかしたらそれは人間ではなく、水槽の中の熱帯魚かもしれないし、買ったばかりの最新型エアコンかもしれないのだけれど、とにもかくにも、そこには、彼女がとても大事に思っているものがあるに違いない。そういう風に無理なく思わせるような、そんな笑顔だったのだ。

……という光景を週に何回か見るようになった。
それはとても心なごむシーンであり、遭遇すると「今朝もなんだかいいもの見たぞ」という気分になるのだが、目撃するそのたびに、つい振り返って彼女が手を振っている相手を確認しそうになってしまうのだ。さすがにそれはいかんだろうと思うので、彼女が振り返る動作に脊椎反射的に反応して回転を開始する自分の頭部をなんとか別の方向に動かし、「ああ首が凝って痛いなあ」というささやかな演技をしてその場をやり過ごしている。

その時、もしもうっかりと振り返ってしまったとしたら、僕の視界には何が映るのだろう。
それは、照れくさそうに手を振り返す男の子かもしれないし、彼女と似た顔立ちの女の子かもしれない。窓枠からちょこんと顔だけ出した猫(もちろん、声は聞こえないが口のかたちは「にゃーん」と言っている) とか、やたらといい姿勢で手を振るペッパーくんという可能性もある。
そんなことを考えていたら確認してみたい気持ちでいっぱいになってしまうけれど、本当にペッパーくんと目が合ったりしたら「うわっ」とか言ってしまいそうなので、僕は地道に「毎朝首の凝りを痛がっている中年男」を演じているのである。