平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

すばやくなりたい。

「こころ」と入力した文字を漢字に変換しようとしたところ、その変換候補の筆頭に「ココロ」というカタカナが表示されてなんか照れる。

ここに表示されるということは、過去に「こころ」を「ココロ」に変換したことがあり、それを覚えていた我がiPhoneが「わかっておりますよ旦那様。「こころ」はカタカナに変換するのがお好みでございますよね」と気を利かせてくれたということなのだろう。

最近そんな変換したかなあ、と思い返してみる。
たとえば、
「自分の心に正直になるべきだ。それは勇気のいる事だとは思うが、僕も微力ながら尽力しよう」
……と書けばいいものを、
「自分のココロに正直になるべきなんじゃないかな。さあ、勇気を出して。大丈夫。僕はいつもそばにいるよ」
……などと書いたりしたのだろうか。

「しがない中年サラリーマンが「こころ」を「ココロ」と書いたら厳罰に処す」というルールがあるわけでもないのだから、好きなように書きゃいいじゃないか、というまっとうな見識を持つ自分の陰に「あ、またやっちゃった」と赤面する自分もいて、なんとも微妙で伏し目がちな気持ちになる。

話は変わるようで変わらないのだけれど、何か思いついたときにそれを手短に素早くアウトプットしたいのである。たとえばTwitterでコンスタントに面白いことをつぶやけるような、そういう能力に憧れるのである。
すばやく、短く、面白く、擬音にするならばぴぴぴぴっと発信できたらいいなあ、と思うのだ。

だいたい僕は文章を書き始めるとくどくどと長くなりがちなのである。その上そもそも書くのも遅い。LINEに一反もめんの如き縦長のメッセージを書いて「あああ、またやってしまった」などと思うことはよくあるし、時間をかけて書いたメッセージは会話のタイミング外してしまっていることも多い。
たぶん、今回のこの文章も、

「こころ」と入力した文字を漢字に変換しようとしたところ、その変換候補の筆頭に「ココロ」というカタカナが表示されてなんか照れる。

……の部分だけでいいんじゃないかと思うのだ。
とは思いつつも、文章が長くなることでの面白味というものも重々承知はしているので、ついついいろいろと書いてしまい、「あれ、文章が長くなることの面白味とやらが出てないのだが」などと青ざめたりするのだ。この文章だって、ちょっと油断したらダラダラダラダラと書き続け、ふと気がついたらオリンピックが終わってた、ということになりかねないのである。

そういう人間だからこそ、すばやく、とか、テンポよく、というような、自分にない要素に憧れてしまうのかもしれない。

すばやくなりたい、すばやくなりたい、すばやくなりたい、すぐなりたい。