平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

朝6時台のシーソーゲーム。

それがいわゆる平日であれば、毎日同じような時刻に自宅を出て、駅のホームの同じような場所で電車を待ち、同じような座席に座り会社に向かう。

朝6時台の通勤電車に乗り込むのは同じような境遇の人が多いようで、いかにも会社員、という風体のメンバーばかりだ。たとえば休日の昼下がり、どこかの路上で偶然であったとしても絶対に気付かないとは思うけど、この電車の中にいれば、「ああ、いつものあの人」くらいには認識できるくらいの「おなじみのメンバー」である。何日か見かけなかったら、「風邪でもひいたのかしらん」くらいのことは思ったりもする。

最近この「おなじみのメンバー」に加わった若い男性がいる。いつもスーツを着ているので、まあ、会社員なのかなあ、と思われる。
彼は、電車に乗り込み、席に座ると同時くらいのタイミングで鞄からスマートフォンを取り出して、画面を眺めはじめる。普通といえばごく普通の、電車の中での過ごし方だ。
ただ、彼が僕の隣に座ると、これがなかなか困ったことになる。きちんと数えたわけではないけれど、平均すると一週間に一回くらいの割合で、僕と彼は並んで座っているような気がする。

さっきも書いた通り、彼は座るとすぐにスマートフォンを見る。そして、あっという間に眠ってしまうのだ。
頭部をだらりと傾けてうとうとと眠ること自体に特に意見はない。むしろ、時間帯からいって、そうしている人のほうが多数派といっていい。
問題は、スマートフォンを見ながら眠ってしまうというところで、ふと気付くと、眠る彼の右の手のひらの上で、まるでシーソーのようにバランスを取りながらスマートフォンが揺れている。「バランスを取りながら」とは言うもののきちんと水平をキープできているわけではなく、スマートフォンの画面上部は向こう側にかなり傾いている。それはまるで飼い主の指示を待つ大型犬の口から垂れる舌くらいの角度で、正直、よく落ちないなあと思う。

この、手のひらで揺れるスマートフォンが気になってしかたないのだ。落下したらどうしよう、などと思いながらついつい見てしまうのだ。
「仮に彼のスマートフォンが落下して破損したとしても、それは自業自得ではないか」とか、「そもそも必ず(それもすぐに!)寝てしまうのなら、スマートフォンなど見なければいいではないか」とか、思うところもなくはない。
「所詮は他人のケータイだ。どうなったってケセラセラ」とばかりに、無視してしまえればいいのだが、なかなかそれが難しいのだ。手のひらのスマートフォンがバランスを崩した瞬間、その感触を感じとった持ち主が「びくっ」と動き、その振動が僕にダイレクトに伝わってくるのである。急に隣で「びくっ」とされると、それと同じくらい僕も「びくっ」となる。それはできれば避けたい事態だ。というか、誰だって、朝から「びくっ」となんかしたくはないだろう。

ところで、彼のスマートフォンが落下したところを二回、目撃したことがある。どちらの時も画面が割れるというような大きな損傷はなかったのだが、それなりに目立つ音がした。そのたびに僕は(当然のように)「びくっ」としつつ、「もしも生まれ変わったら、あまりびっくりしない性格になりたい」と来世への小さな期待を胸に抱くことになる。
ちなみに、はじめてその落下事件を目撃したとき、彼のスマートフォンは僕が拾いあげた。拾ったそれを彼に渡しながら、
「スマートフォン、落とすと壊れちゃうかもしれないから、鞄に入れておいたほうがいいですよ」
……と言ってみたのだが、彼の返答は、
「あ、全然、大丈夫れす」
……というものであった。
つまりそれは、正確に「大丈夫です」と言えないくらいに寝ぼけているということであり、つまりそれは、あまり大丈夫ではないという状況だ。それ以降も、朝の通勤電車で彼が隣に座るたび、彼の手の上でスマートフォンはふらふらと揺れ続け、僕はついついそれをチラ見している。そして、「人生には無駄なんてありはしないんだよ」みたいな言い回しをどこかで聞いたような気がしないでもないけど、そんなことないよなあ、などと思ったりしている。