平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

僕が叫びを叫ぶとき。

都内有数の大きな駅の構内で、大声で発言しながら歩いている女の人がいた。

年齢は20代といったところだろうか。ひとりで歩きながら、真正面に向かって叫んでいる。僕から見える範囲での判断では、彼女の視線の先に、そのメッセージを伝えたい相手が具体的にいるわけではない、ように見える。
周囲の人たちは、驚いたり、うっすらと笑ったりしながら彼女を見て、なるべく彼女と距離を開けようと工夫している。少し離れたところでスマートフォンを構えている男の人がふたりいる。動画でも撮っているのかもしれない。

たとえばこの状況を目撃した誰かが、それを人に説明する場合、「駅で若い女がわけのわからないことを言いながら歩いてた」というようなコメントになりそうなところなのだが、実際のところはやや違う。大人の女の人が朝っぱらから大きな駅の構内で歩きながらメッセージを発信する意図は「わけのわからない」ものなのだが、彼女が話している内容自体は、むしろわかりやすいものだったのだ。

彼女が叫んでいたメッセージの内容は、まず、神奈川県のとある住所を述べ、次に自分の名前を名乗り、最後に自分とこの住所にはなんの関わりもない、ということを宣言する、というものだった。
発音ははっきりしているし、声も良く通る。少し緊張しているような、張り詰めた声だったが、発している言葉の意味自体は、ひとつも難しいところのない、子供でも理解できそうな内容なのだ。
ただ、そのメッセージが、どうしてここで連呼されなければならないのか、その事情はわからない。わかるのは、どうやら彼女は真剣だ、ということだけだ。あの表情とあの声は、真剣に訴えたいことがある人のものだ、ということはよくわかるのだ。

それがどういうものであれ、ひとつのものについて強く思い、考えていると、そのことが頭の容量の大部分を占めてしまうことがある。その思いが強ければ強いほど、頭の中はそればかりになり、その結果、頭の中で処理すべき情報のバランスに偏りが生じることがある……のではないだろうか。その偏りが表に出ると、時にそれは第三者には意図が伝わらない奇行に見えたりするのだ。

何かのマニアであるとか、特定の人物を極端に好きすぎるとか、病を抱えていてそのことばかり考えざるを得ないとか、特定の分野について強固なこだわりを持ち続けた結果その世界で突出した存在になってしまったとかいうような人間は、様々な行動でその偏りの結果を表出させることがある。
その行動に第三者は驚かされたり感心したりすることになるのだが、その行動の底を流れるのは対象への思いの強さとある種の真面目さだ。そして、脳内での情報処理のバランスを偏らせてしまうほどにあるものに強い思いを抱き、それについて真面目に考え過ぎるという傾向は僕にもある。ある、というより、そういう傾向が強いのではないか、と自分では思っている。

彼女のメッセージの意味するところは僕にはわからないものだったが、そういう行動をとること自体にはそれほど違和感を感じなかった。彼女には強く思うことがあり、それについて考えれば考えるほど、それを表明しないわけにはいかなかったのだ。朝の、都会の大きな駅で。

だから、あの時考えたことは、もしかしたら、僕もいつか、あそこで叫びながら歩いてしまうというようなことがあるのかもしれない、ということだ。
子供の頃から、なにかについての思いが強くなると、過剰に思いつめてしまうことが時々あった。そして、何回か、ではあるけれど、思いつめた結果の自分のふるまいに落胆したり後悔したこともある。
だから今は、ひとつのことにあまり深入りしないように、沼に落ち込まないように、無意識のうちにブレーキかけているのではないか……と、時々自分の頭の中を覗き込んでみて思うのだ。

もしも僕が、朝の大きな駅の構内で、何かを叫びながら歩くことになったとしたら、それはどんな内容の叫びなのだろう。