平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

緊急事態と赤い月。

朝、会社に行こうと自宅を出て、しばらく歩いてからマスクをしていないことに気付く。
時間にそれほど余裕はなく、マスクを取りに帰ったらそこそこ本気で走らないといつもの電車に乗ることはできない。いつもの電車に乗れないということは始業時刻に遅れる可能性が高くなる。ちなみにこれは朝の6時を少し過ぎた時点での話だ。

コロナウイルス感染リスクを避ける為にいわゆるオフピーク通勤をすることになり、始業時刻が7時台になった。
もともとそれくらいの時間帯に出社はしていたのだが、「混んでいる電車に乗るのが嫌で早く出社している(そして出社後は休憩所でぼんやりと本を読んでいたりする)」というこれまでの状況と違い、その時間帯に出社していないと遅刻、というのはけっこうリスクが高い。これまでなら自宅を出る時刻が多少遅れたり乗った電車に急病人が発生してどこかの停車駅からぴくりとも動かなくなったりしても「やたらとはやく出勤しているオレ様には1時間の余裕があるのだワハハ」などとゆったり構えることができたのだが、今はそうはいかない。
感染リスクを下げるための通勤をする、という社会的に有意義な行動をするために遅刻リスクが上がるというのは社内的にはいかがなものか。いっそ決心してもっと早い時間に自宅を出ればいいのだけれど、何度かの試行錯誤を経て電車の接続や混み具合が一番ベストな時間を選んだのが今の出勤スタイルなのだ。
できることならこのスタイルを変えたくないのである。

結局のところ、僕は自宅にマスクを取りに走ったのであった(まさか使い捨てマスク1枚に走らされることになるなんて)。
通勤経路上にあるコンビニ、ドラッグストアでマスクが買えない現状では、走って取りに帰るしかない。その薄っぺらいマスクがないと、車内や社内で一日肩身を狭くして過ごさなくてはならないし、今の会社のルールでいえば、マスクがないと他のフロアへの移動をしてはいけないことになっているのだ。

月曜日に、「もしかしたら早晩そうなるかもしれぬ」という噂が会社で流れ、その時点ではなんとなく他人事のように、というか、「そうなるかもしれぬ」などと言いつつも結局はそうならないのではないか、と思っていたのだが、実際のところ事態は僕の小さな脳での想像なぞ軽く超え、要は明日から自宅待機をすることになった。
月曜に流れた噂が火曜に確定し、水曜までに準備をして木曜から自宅待機開始、というスピード感である。まさに緊急事態、というところだ。
もっとも、すべての社員が自宅待機するわけではなく、「作業を止めるのが困難な案件を抱えている者」とか「この人がいなかったら誰が会社を守れるんだ、という選ばれしジェダイだかアベンジャーズ」は木曜日以降も引き続き出社をする。どちらにも属さない僕は自宅待機組になったわけだ。

先月終息した案件の後始末をして、立ち上げようとしていた案件にそっとフタを閉じ、サポートしていた他所の案件の引継ぎをちまちまと済ませる。仕事を中断するための準備はそれなりに忙しく、ささやかに残業などしたものの夕方には目鼻がついた。日々それなり忙しくしているようでいても、ちょっと本気を出せば三日で収拾するくらいの仕事だったのか、と思うべきか、なにかうっかりと見落とした作業があるのでは、と思うべきか、なんとも迷うところだ。

それはそれとして。
問題は自宅待機なのだ。
どうやら聞くところによると、自宅待機とはとても辛いものらしい。やることもなく、ただひたすら自宅でじっとする。遅々として進まぬ時計の針、たまるストレス。平日の朝から自宅にいる自分を異端の者のように見る家族。

おお、I'm an alien,I'm a legal alien.

僕に自宅待機の厳しさ恐ろしさについてアドバイスしてくれた人(というか上司)は、「どんなにつらくても朝から酒は飲むな」とまで言っていた。
世の中、その状況になってみないとわからない、ということはたくさんあるし、やることがない辛さ自体は経験したことがあるので早々に合点してはいけないのだが、そもそものところで自宅待機で「やることがない」という状態が(今のところ)上手く想像ができない。

会社からの帰り道、空にはえらく大きく赤い月がじわんと光っていた。もしかしたらスーパー・ムーンというやつかもしれない。いつもより大きな月というものは、それだけで見入ってしまうような、息をのんでしまうような迫力がある。しかも赤い。なんだか少しこわいような気すらしてくる。

もしかしたらこの月は、明日からの自分の運命を暗示しているのではないだろうか。そうでなければ、あんな色で光る理由がわからないではないか。
……せっかくの機会なので、このような拡大解釈をしてみようか、などと思ってみる。はてさてどうしたものか。なんとも迷うところだ。