平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

彼女が本当は欲しかったもの(ケンタッキー・フライドチキンにて)。

朝、自宅を出る時は肌寒かったのに、診察が終わって病院を出た時にはすっかり暖かくなっていて、自宅の最寄り駅に着くころには少し汗ばんでいた。

さっき寄り道したある商業施設のエレベーターよりも、昨日行った会社のエレベーターよりも、病院のエレベーターが「密」な状態だった。商業施設や会社のエレベーターの床に描かれていた、ソーシャルなディスタンスをキープするための立ち位置を示した足跡マークも病院のエレベーターにはなかった。「病院なのに、ねえ」という、「いかがなものか」感を抱かなくもないものの、各エレベーターの底面積や使用状況を考えると仕方のないところなのかもしれない。
そもそも、僕が通っている病院はそれなりに大きい建物の割にはエレベーターの数が少ないような気がする。そのエレベーターもそれほど大きいわけではなく、車椅子が乗ったら残されたスペースには付き添いがふたり乗れるくらいの余裕しかない。
次に来る時にはエレベーターは遠慮して、エスカレーターで移動することにしよう……と思いつつも、エスカレーターで移動できるのは地下1階から地上2階までで、2階のエスカレーターそばの張り紙によれば、3階より上への移動はエレベーターか階段をお使いください、ということになっている。僕が行きたいのは5階なので、徒歩で目的地へ到着するまでにはけっこう体力を使いそうだ。医師と話をする前にへとへとになっているのってどうよ、という気はしないでもない。
ところで、病院の入り口に置いてあった手指の消毒剤のボトルにはとても濃いジェル状のものが入っていた。さすが病院、というところだろうか(ホントか)。

それにしても、病院で医師と話すだけなのに、どうしてこうも疲れるのだろう。
話す内容はとても大事なことなのに、日頃それについてしっかり考えていないから、急にその話題についていこうとすると脳がオーバーヒートしてしまうのだろうか、などと思いながら自宅最寄り駅そばのケンタッキー・フライドチキンに入る。まあとにかく今日最大のイベントは終わった。土曜にはまた病院に行かなければならないけれど、今の時点ではささやかな達成感はある。そこそこ暑いし、帰宅したら昼食がわりにフライドチキンとビール、と我が家では呼ばれている発泡酒を飲んでやろうとたくらんだのだ。
これがいわゆる「自分へのご褒美」というやつなのだろうか。病院に行ったくらいでご褒美あげてどうすんだよ、オマエ何年医者通いしてるのさ、とも思うけれど、今回の診察は少し気が重いものだったのだ。

ケンタッキー・フライドチキンの店内にはお客さんがひとり、レジで注文の真っ最中であった。白髪の女性で、年齢的には「おばあさん」と言っても違和感がないように見える。身につけているものは白いシャツと細身のジーンズ。着ているものの組み合わせとしては僕も同じようなものなのだが、その老婦人からはどことなく、しゃんとした雰囲気が伝わってくる。それに対して自分の着ているものを改めてチェックしてみると、くたくた、とか、よれよれ、という言葉しか出てこないのはなぜだろう。着ているものの組み合わせとしては同じようなものなのに。

「あら、ポテトもいただけるの?」

どうやら老婦人は、期間限定の、トリュフ香るクリーミーリッチサンドのセットを注文していたようなのだが、それならばポテトが付くのは当たり前だ。「そうなのね、そういう仕組みなのね」という声も聞こえてきたから、ファストフードに慣れていない人なのかもしれない。
店員さんからそのへんの説明を受けながら、「あら」とか「まあ」などとおっとりとした相槌を打っている様子をなんとなく眺めながら、この老婦人の素性を想像してみる。どことなく品の良さを感じさせる立ち居振る舞いから、どこかのお金持ちのご婦人なのかもしれない、などと考える。
久々に下界を散策していたら、世界三大珍味でおなじみの「トリュフ」という文字を発見し、うまれてはじめてファストフード店に足を踏み入れた……というあたりが無難な想像だろうか。

そんなことを考えていると、店員さんが飲み物の希望を聞いている声が聞こえてきた。それに対する老婦人の最初の返答は、

「まあ、お飲み物を選べるの!」

というもので、その声の音色からは降ってわいたような幸運に喜んでいる様子が伝わってくる。

「私ね、一度飲んでみたいと思っていたものがあるの」

老婦人はたっぷり30秒ほど考えてからこう言った。お店に入ってからそこそこ時間が経っているような気はするが、個人的にはもう気にならない。今となっては、彼女の買い物を見届けたいという気持ちのほうが圧倒的に強くなっていた。

その後、彼女はこう言った。

「私ね、一度、マックシェイクというのが飲んでみたかったの」

それに対する店員さんの返答は、

「すみません。マックシェイクはないんです」

というものであった(それ以外、どう答えようがあっただろう)。
老婦人は、「あら残念。今日は売り切れなのね」とか「この、四角いオレンジジュースでもいいのかしら」とか「これは便利ね。持ち帰る時にこぼれないし、飲み終わったらそのまま捨てられるし」とか言いつつ、最終的に紙パックのオレンジジュースをチョイスし、満足そうな微笑みを浮かべつつ帰っていった。

ちなみに、僕は香るゆず七味チキン(骨なし)を注文した。注文に要した時間はおよそ10秒。店員さんとの短いやりとりに、味気なさというか、この場を楽しめていないような気になってしまうのは老婦人の影響だろう。

なんにせよ、今日はなかなか楽しいものを見た。楽しいものを見ることはいいことだ。
帰宅したら老婦人のことを思い出しながらビール、と我が家では呼ばれている発泡酒を飲み、香るゆず七味チキン(骨なし)を食べて、そのまま昼寝でもしてしまおう。それにしても、病院で医師と話すだけなのに、どうしてこうも疲れてしまうのだろう。