平熱通信

妄想癖、心配性、よそみがち。

『天気の子』の最後の部分について。

スタッフロールとかエンドクレジットとかいわれる例のあれ、映画が終わる時にスタッフやキャストの名前が流れるように表示されるあの時間帯の最後には、その映画の監督の名前が表示されることが多い。
スクリーン下方から監督の名前が登場する時に、「そのまま監督の名前が流れ去る」場合と、「監督の名前のみスクリーン上に静止する」場合があって、個人的には流れ去る版のほうが好きなのだ。

映画に関する好みということでいえば、その作品のタイトルが表示されるタイミングや演出についてもわりと気にするほうかもしれない。
ちょうどいいタイミングでちょうどでいい大きさのタイトルがちょうどいい音響や音楽の中ちょうどいいくらいのキレで表示されるともうそれだけでうっとりとしてしまい、その時点でその作品は傑作として認定されることもある(もちろん、あくまで僕の中で)。

そんなわけで、『天気の子』は、僕(及び一緒に観た娘)にはなかなか好評であった。もちろんこれは、中身、というか本編部分も含めてのことだ。少なくとも我々親子には(ちょっと意外なほど)すとんと受け取ることのできる物語であった。ただ、けっこう好き嫌いの別れそうなお話のような気もしたので、娘にそこらへんのことについてのご意見を聞いてみたところ、彼女はカップヌードル(シーフード)を食べながら「お話なんてそもそもそういうもんだから」と回答した。僕はカップヌードル(チリトマト)を食べながら、まあそうだよな、と思ったのであった。

ところで、作品中で語られるところの「カップヌードルは調理時間2分で食べたほうが美味い」という主人公の主張についての我が家の見解は、「わりとどちらでもいい」である。
これは、映画館からの帰り道でカップヌードルを買いこんで実験した結果、確定した結論ではあるのだが、まあ、だからなんだ、という話ではある。